札所18番の蓮華院から歩いていけないこともないのでしょうが、仏子駅からの出発になりました。

いつものごとく、歩き巡礼です。

だんだん山深い印象になってきた武蔵野三十三観音の歩き巡礼です。

この東光寺までは、仏子駅から歩いて行ったのですが、途中、舗装道路ではありますが、山を越えて行きます。

武蔵野音楽大学があるのですが、そこまでは比較的大学キャンパスもあって住宅地という感じなのですが、そこから先が山道の景色でした。

しばらく歩きますと、また住宅地になってくるのですけどね。

ゆるやかな坂道を越えて行きます。

武蔵野三十三観音では後半の寺院は自然があふれる地域になります。前半は住宅地での散歩といった様相なのですが、後半から変わってきます。

とはいえ、舗装された道ですし、最後の2ヶ寺に比べたらまだまだです。

最後の2ヶ寺は雪が降るような季節になったら行けなくなると言われていますからね。車だったら可能なのかもしれませんが、それでも滑るから危ないと思います。歩き巡礼なら雪道で山道というのは危険極まりないでしょう。

武蔵野三十三観音は冬になってから巡礼するのなら、前半だけにして春になって暖かくなってから後半行くといいでしょう。もしくは、秋になっているなら、間に合うのなら後半を先に回ってしまうという手もあるでしょう。


薬師堂の前に回向柱が立っていた東光寺

東光寺に来てみての第一印象は、やけに背の高い木が多いなということです。鐘撞堂の前にもかなり高い木があります。

表参道からは本堂を真ん中とすると、右手に鐘撞堂があって、左手に薬師堂があります。

入り口には六地蔵です。でもいつも見る六地蔵よりは小さめに感じました。

それにしても武蔵野三十三観音では必ずと言っていいほど、六地蔵がありました。見ていないお寺は私が気がつかないだけだと思うくらいです。

この東光寺のある付近の場所は、瓦を焼くための窯があったといわれています。

この次の札所である龍円寺の裏手には、窯跡公園とも呼ばれる入間台遺跡公園があります。私もそばを通りましたが、公園のほうまで行くとなると墓地の裏手で、雑草のある道を通っていくようだったので、諦めました(後で調べたら他にも道路があったようですが)。

新久窯跡と呼ばれる場所です。ここで作られた瓦は国分寺で使われていたのだとか。

で、古くから窯があったということで、御詠歌には「瓦焼く人」の文字があるのです。

 


東光寺と多羅葉の木

本堂に向かって左手に薬師堂があります。

薬師堂の前には「武蔵野観音霊場 紀元二千六百年記念開設 第十九番札所東光寺」と書かれた古い石碑がありました。青っぽい石で板碑のようにも見えます。

これが帰ってから知ったのですが、霊場を開設した柴田常恵氏が建立したものだそうです。

なんと、貴重な歴史ある石碑だったのですね。

昭和十五年に開創された武蔵野観音霊場です。その当時はこれから戦争に向かう時期でした。観音霊場を開創したものの願いとは裏腹に、お参りする人は徐々に減ってしまったそうです。

しかし、戦後の混乱期を過ぎてから徐々に巡礼の人も戻ってきて本格的に開創記念として行われるようになったのは、平成の時代に入ってからとのことでした。戦後の時期を経ても霊場としては護持されていたのですね。

 

青っぽい石碑のすぐ隣には、所沢の実蔵院と新光寺でもみた石仏が2つ並んでいて番号が書いてあるものです。

第四十六番と刻んであるのが見えます。奥多摩新四国八十八ヶ所の霊場でもあるのです。

その横には薬師堂の前に植えてある多羅葉の木の説明文です。

こちらの多羅葉の木もかなり高い木なので、上まで写真に入っていませんが、入間市の市指定文化財、天然記念物になっています。

私も神社だったかお寺だったのかで多羅葉の木を見たことがあります。そこではハガキの木となっていました。

多羅葉の木の葉は、葉っぱの裏に字が書けてそれがいつまでも残るために「葉書」はこの木の葉っぱから来ている言葉だとのことです。

東光寺の多羅葉の木は樹齢が約300年くらいあるそうです。

入間市によると「東光寺の多羅葉は根回り3.0メートル、高さ12メートル、樹齢約300年で、タラヨウでは市内第一の古木」だとのことです。



薬師堂は写真でみるよりも古びた歴史ある感じがあるお堂です。欄間の彫刻も素晴らしいですが、額に入った彫刻に何か意味がありそうな気がします。

薬師堂には当然ながら薬師如来がおまつりされいて、その場所に観音霊場の御本尊である聖観音菩薩がお祀りされています。

観音様は、薬師堂に向かって左手の中にお祀りされていました。お手綱が少し見えますよね。

中をのぞいてみたら、厨子の扉が開いていて(御開帳だから当然か)、中に金色に輝く観音様がいらっしゃいました。

それなので、この薬師堂の前に回向柱が立っています。


本堂の前に梵鐘がある東光寺

東光寺は元禄15年(1702)に今の地に移転したと伝えられています。

入間市のホームページによると「東金子小学校が開校されるまでの間、小谷田・新久地区の小学校として使われて」いたとのことです。

寺子屋的存在だったのでしょうね。


こちらが本堂前の梵鐘です。

入間市の指定文化財(工芸品)です。

ここの説明書きに書かれていたのは、
「延宝2年(1674)小谷田村の領主であった旗本五味豊旨(とようじ)の家臣43名が前主君備前守豊直(びぜんのかみとよなお)の遺徳をしのんで、武蔵野の名刹東光寺に献納した梵鐘で、鋳造者が京都の名工鋳物師の一人、近藤藤久、銘文は智積院七世運敞の柵になる」

総高113.2センチメートル、直径51.5センチメートル、 周囲160センチメートルもあるという立派な鐘です。

「鐘の内側には家臣の名前が刻まれている」とのこと。

なお、東光寺の入り口近くの鐘撞堂に置いてある梵鐘は、昭和63年に鋳造されたものだそうです。

それも結構古いのですが、さすがに入間市の指定文化財のほうが歴史あるので、こちらは本堂前に置いてあるようです。

東光寺の本尊は、こちらの本堂にあって、不動明王が御本尊だそうです。

御朱印は寺務所前の箱の中に

私が行った時は、5月の末日あたりだったのですが、まだ御朱印の受付が中止となっていた頃でした。

緊急事態宣言は終わっていたのですが、霊場としては6月1日から再開したようでした。

下のように書かれていたので、料金を置いて差し替えしました。



車だったら、出直しするのも簡単でしょうが、駅からずっと歩いてきたので、お金を置いて差替えすることにしました。

その後、再開された後の東光寺の御朱印には、鐘の印も着いて(私が差し替え用にいただいた御朱印には無かった)いたのをネットで見て、後にすればよかったかなとも思いました。

鐘の印に80周年と書かれていたのを写真でみたので、結願した後だったのに、すぐに重ね印をいただこうかしらとも思ってしまいました。

武蔵野観音霊場の開創の折には、国運の隆昌を祈り、観音様に一人でも多くの人が救済されてほしいという願いが込められていたそうです。

戦争中、そして戦後の混乱期には巡礼の人、参詣者も減った時代があったように、今回の御開帳も前回の御開帳に比べたら巡礼でお参りに来た人も減っていたのかもしれないなと、思いました。