高麗神社はいろんな人が知っていて、参拝後に総理大臣になった人が何人か出たので出世運にいいとか、勝運によいとか言われています。

しかし、高麗神社だけ参拝してその隣にあるこの聖天院にお参りしているでしょうか。

ほとんどの人が高麗神社だけ、ではないでしょうか。実は私もそうでした。こちらの聖天院の存在すら知らなかったのです。

それが今回、武蔵野三十三観音めぐりで隣にお寺があったのか!と驚きでした。

高麗神社ならぬ高麗山です。高麗山聖天院勝楽寺です。

高麗神社でも見かけることのあるトーテムポールのような将軍標がみえますよ。


拝観料金が必要だが見どころ満載なので時間に余裕をもって見学を

高麗山という名にふさわしい小高い丘の上にあります。前回の番外、霊厳寺の記事でも少し書いたのですが、霊厳寺から高麗神社方面を見ると、山のような場所になっているのです。

高麗神社に行ったことがある人なら、水天宮があって、そちらに参拝するには、山のようなところを登っていく必要があることが知っていることでしょう。

その水天宮と続いた山腹に聖天院はあります。ある意味、裏山という感じでしょうね。

高麗神社の参道の脇の方から近道がありますので、歩いていきますと、じきにこのような光景が見られます。視界がひらけると、丘の上にお寺があることがわかります。

おおーこんなに近くにお寺があったのね。

こちらも元は神仏習合だったのが、途中で高麗神社と聖天院とに別れたのでしょうか?


 

さて、もっと近づいて来ますと、このような池があることもわかります。

遠くから見ても、かなり広い敷地だとわかります。山門から本堂まで見渡せます。

これだけの広さがあって、それをきれいに保つには入山料が必要だろうなとわかります。

そのうえ、高麗神社までは参拝してもこちらの聖天院まで来る人はぐっと減りますから高麗神社のように出世を願う人たちが続々とやってくるならともかく、ほどほどの参拝者でこれだけを整備しないといけないのですからね。


武蔵野三十三観音霊場開創80周年総開帳の立て札です。こちらでは、始まりの日は書いてありましたが、終わりの日が訂正されて、最後の日は消えていますね。

ということで、武蔵野三十三観音めぐりでは他の霊場とは違い、こちらの聖天院では拝観料(入山料)が必要となります。

鎌倉の観音めぐりだとか、西国三十三観音だとか拝観料(入山料)が必要なお寺が多いと違うのでしょうが、武蔵野三十三観音ではこちらの聖天院がはじめての「参観無料」ではないお寺になります。

貴重な文化財もありますから、拝観料を取ることでめったやたら人が入って来ないようにしているのかもしれません。

 



私が行った時点では、大人300円で、子どもが150円でした。

こうやってみると、指定敷地内拝観料と書いてあるので、有料と書いてるところより内側は、料金を払う必要があります。

それでも、お正月の松の内の間は無料のようですね。あと9月5日の大施餓鬼会の時も無料だということです。

逆に言えば、それ以外は拝観料が必要だということです。

聖天院勝楽寺のいわれについては、以下のように書いてありました。

「聖天院は霊亀二年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗人1799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。僧勝楽により開基に聖雲と弘仁により落成され、本尊には追うが守護仏として故国より将来した聖天尊(歓喜天)を祀った。故に聖天院勝楽寺と称する。

当山開基より約六百年後の貞和年間(1345)中興秀海上人は、法相宗を真言宗に改めた。以来当山は高麗郷一帯の本寺として末寺五十四ヶ寺を擁し、寺門大いに興隆した。

開山以来実に千二百数十年、法灯連綿として絶えることなく現在に継承されている。

天正八年(1580)第二十五世圓真上人は、本尊に不動明王を勧請し、聖天尊を別壇に配祀した。本尊不動明王(胎内仏弘法大師御作)、王守護仏聖天尊は共に霊験まことにあらたかで、多くの参拝者に深く信仰されており、境内には王霊廟(墓)、高麗殿の池、高麗殿の井戸などの史跡が現存し往時が偲ばれる」

と昭和五十七年三月の説明書きに書いてありました。

ということで、もともとは聖天様をお祀りしていたが、現在の御本尊は不動明王のようですね。


雷門から入った先からは拝観料(入山料)が必要

この山門は、雷門と書いてありますね。雷門は浅草の浅草寺だけかと思ってました。

風雷神門のことですね。風神、雷神が門で見張っているから風神雷神の門、風雷神門ということです。

浅草を思い出すような雷門の提灯です。

そもそもは高麗人のお寺だったということですが、これはまさしく浅草寺の雷門です。



それにしても怖そうな風神と雷神です。夜に見たら、ぎょっとしそうです。

霊亀二年に作られたお寺ですが、その当時からある門ではなく、天保年間に建立されたそうです。

「高欄親柱擬宝珠に天保3年(1832年)の銘が刻まれていることから、172年前の江戸時代後半に建立されたと」考えられているそうです。

雷門自体もかなり古びています。この門の上には、大日如来がお祀りされているそうで、そのほか観音様や十六羅漢も安置されているとのこと。

高麗人は天智天皇の頃、唐に攻められて滅亡して、日本に逃げたのですが、その頃の王など一族が作った頃はどんな感じだったのでしょうね。その頃は、山門はあったのでしょうか。



山門である雷門を入ると目の前に階段がありまして、「ここより有料」となっています。

ここから先は、拝観料が必要です。

今は真言宗のお寺になっています。先ほどの説明書きには、当初は法相宗だったそうです。

高麗人も日本に逃げてきたときは各地にバラバラになっていたそうなのですが、ここ高麗郷に地に集められたということです。



階段を登ると入山料を払う場所になっています。ここの入り口で払います。私はここで、差し替えの御朱印やお姿なども購入してお金を払いました。

いつもこのように階段上のここの門のところで拝観料とともに払うのか、それとも今年は自粛でそうなっているのかわかりませんでした。

雷門(山門)を入って、階段を登った先の門のところは「受付」であることは間違いありません。

いつもの小坊主もいましたよ。

不動明王が本尊だからなのか、護摩祈祷もやっているのですね。

拝観料を払った場所には、ざっくりとした「拝観案内図」がありました。



山の奥には慰霊塔があることがわかります。

お金を払った場所は、「受付」と書かれています。

受付に入ってすぐ左側に阿弥陀堂があります。さらに上には本堂があります。石灰岩の雪山の隣にトイレがあります。

雷門のすぐ横は、王廟となっていて、ここに高麗王若光に関わることがお祀りされています。

高麗王若光は、高麗神社では高麗大明神としてお祀りされています。

 


受付入ってすぐ左側にある阿弥陀堂に観音様

まずは私の目的である武蔵野三十三観音のお参りです。

観音様は阿弥陀堂にいらっしゃるようでした。武蔵野霊場二十六番本尊とあります。

阿弥陀堂の前にはマニ車も見えました。

回向柱があって、お手綱も見えました。

中には阿弥陀三尊がいらっしゃって、向かって左側に観音様がいらっしゃいました。

観音様の手のあたりからお手綱が伸びているのが、遠くからでも見えました。

平安末期の聖観音菩薩です。確かに古くて魅力的でした。

十王像もあるそうですが、阿弥陀三尊と観音様に気を取られてしまって、そこまで見ていなかったです。



こちらの回向柱には、ところどころ切れ込みがあってそこにお手綱が挟まれていました。

回向柱には梵字が書いてありますね。お手綱も触ることができました。

お手綱も握ることができて、聖観音菩薩のお顔も見ることができて、今回の武蔵野三十三観音の中では大満足です。

御開帳というのに、扉がしまっていたり、お手綱が巻き上げられたりしていましたから。

高い場所には、本堂があるのが見えます。本当にきれいに整ったお庭です。



上の写真が武蔵野三十三観音めぐりに関係する阿弥陀堂の全体像になります。

なかなか美しい阿弥陀堂だと思ってました。

あとで調べてみたら、この聖天院の中にある堂宇のうち、この阿弥陀堂が一番古くて、室町時代の建物だとか。

そこまで古いとは思ってみなくて、もっとじっくり見ておけばよかったと思いました。

日高市のホームページには、以下のように書かれていました。

本堂は昭和59年に修復され、外観は大きく変わっています。修復時に宝永の墨書きが見つかり、およそ300年前に建築されたことがわかりました。堂内は中世の禅宗様式を持ちながら土間ではなく、床が設けられている事が特色です。須弥檀(しゅみだん)には阿弥陀如来坐像、勢至菩薩坐像(せいしぼさつざぞう)、観音菩薩坐像(かんのんぼさつざぞう)の三尊が安置されています。

勢至菩薩坐像とともに、観音菩薩坐像があるのですね。

武蔵野三十三観音めぐりの人は、これで終わりにしてもいいのでしょうが、せっかく来たので色々と拝観させていただきましょう。


本堂へとさらに山を登る

睡蓮の花があったり、これはつつじでしょうか。木々がきちんと整えてあります。

さらに山を登ります。



階段の脇には、お地蔵様がいました。紫陽花も見えました。

さらにその上の階段には、仁王様ですよ。



登った先には本堂が見えます。

これは小高い山のぼりですね。



このまま本堂へ行こうかと思ったのですが、鐘が気になって先に見に行くことにしました。

三春滝桜が植えられていました。春の桜の頃はいい景色でしょう。枝垂れ桜のように見えます。

 



鐘撞堂に到着です。鐘を撞くのは有料でした。一打百円です。

土足のまま上がれるようです。

 



鐘撞堂自体もかっこいい建物です。

しかし、鐘を撞くのはやめておきまして更に先に行きます。



先には、石像がありました。

こちらが高句麗の高麗王若光、若光王です。

高麗神社でお祀りされている高麗王若光です。


鐘撞堂より先は異国の地のような感覚に

高麗王若光の像を見てからは、台湾や韓国でみるような光景が広がります。

慰霊塔などがある場所です。

 

もしかしたら、ここから先は高麗にゆかりのある人くらいしか来ない場所なのかもしれません。

八角亭が見えますから、よけいに異国の地にいる気分になります。

慰霊塔は世界大戦で亡くなられた無縁を祀る塔のようです。昔に渡来した高句麗の同胞達とともに、ということだそうです。

石塔としては日本最大だとか。十三重石塔と思ったら、三十六段階になっているそうで、凹んだ部分も入れて数えるようです。下部には納骨堂があるとなっていました。

「ソウルパゴタ公園内の八角亭を縮小建築したもので、祖国同法により祖国の建材を使用して施工されたものです。



慰霊塔の歴史について、書いてあることはさきほどの山門前の説明書きに似ていました。

「慰霊塔・聖天院開基の歴史」となっています。

「続日本書紀に霊亀二年(西暦716年)高麗人一七九九人を武蔵国に移して高麗郡を設置したと記されています。初代の郡長若光(高句麗末期の王子の高魔王)は、大いに治績をおさめ、郡民敬意のうちにその波乱に満ちた生涯を終えました。

高麗王の侍念僧勝楽は、王の冥福を祈らんが為、王の念持仏(聖天尊)を本尊としてこの寺を創建し、王の霊を祀りました。日本では古来より、故人のために寺を建立することは最良にして最高の供養とされています。これが当山開基の歴史であり、天平勝宝三年(西暦七五一年)のことでした。爾来、聖天院は高麗郡の本寺として高麗王はじめ郡民の菩提所として今日に至っており、王招来の聖天尊は人々の篤い信仰を集めて来ました」

このように聖天院の開基の歴史とともに、歴史のほか、さらにこの慰霊塔についても書いてありました。


 

石塔のそばには、朝鮮半島ならでは石像が多いです。

八月五日は、慰霊の日と書いた札がありました。



なんだか日本にいるとは思えないような光景です。

まわりの石像群は、朝鮮半島の王様かな。

石像は広開土大王、太宗武烈王など偉人なのだそうです。

 



さらに上に登れるようになっていたので行ってみました。

すごいいい景色です。

高麗神社や聖天院のまわりが見渡すことができます。

もし、時間があるようでしたら、こちらの方まで登ってみるといい景色が広がりますよ。



上から見る本堂です。

本堂もなかなか立派なもので、広いですね。



さきほどの高麗王若光の像や鐘撞堂がみえます。

このような配置になっています。

ここまで登ると聖天院の山内が見渡すことができます。



さきほどの慰霊塔の石塔も下に見えます。

なぜかこの頂上のような場所に、庚申塚のような石碑がありました。

見猿、聞か猿、言わ猿が入っている石碑です。


本堂には不動明王と聖天尊が祀ってあり

さて、本堂である聖天院です。

不動明王が祀られています。距離があったので(それに仁王像のような大きいものでもなく)、不動明王像はよく見えませんでしたが、お不動様だろうなと感じました。

このお不動様の胎内仏として、中に不動明王立像があるということです。詳しくは、境内にある「聖天院の文化財」という説明書きをみるといいです。

聖天尊、歓喜天は秘仏が普通ですから、探していませんが、真ん中にあるのは、お不動様だろうことは、わかりました。

熱心に祈る人たちが訪れています。それにしても壮大な建物です。



石碑のところは達筆でよく読めず。

大光寺、定泉寺、観音寺という寺名は見えます。

 



本堂に向かって左手には、石灰岩の山です。

雪山と呼ばれるのが理解できるほど。



山のようになっていますね。それも白っぽいので雪山と思えるほどです。



そう言えば、本堂の前からも眺めがいいですよ。

こちらはもっと家や畑、途中の森などがはっきり見える場所になります。



さきほど登ってきた階段を上から撮ってみました。

これでどれほど高い場所なのか感じることができるでしょうか。

 



下に降りまして、受付のところの案内図に書いてあった、「築山、王廟」という場所へ行ってみることにしました。



高麗王廟と書いてある方向へ。

聖天院の文化財も書いてあります。

これだけ歴史が古くて高麗人由来のお寺ですから文化財も珍しいものが多いことでしょう。

文化財には「徳川将軍寺領寄進状」もありました。梵鐘や銅鐘も入っていますね。

木造阿弥陀如来坐像、木造不動明王及び脇侍像もあります。

建物としては、聖天院阿弥陀堂、聖天院山門もですね。高麗王若光の墓もありました。


文化財となる高麗王若光の墓も

こちらが、高麗王若光の墓です。高麗王廟と書いてあります。

その墓所手前の石灯篭のところには、石が積まれていました。

羊の石碑も見えます。

お墓は大きめの石が積み重なっていました。

その前にはお線香が絶えないようでした。私の前にもここにお祀りしていた人がいました。


おそらく昼間は開いていますが、夜になるとこの門が閉じているのでしょう。高麗と書いてありますね。

こちらのお墓参りをすると出世開運になるのかなと思いました。

お線香も絶えることなく供えられています。



史跡となる高麗殿池です。



だけど水は濁っていました。ここが「築山」と書いてあったところでしょう。

 



高麗神社だけでなく、こちらの聖天院も「出世開運」なのですね。

高麗王墓所とあり、武蔵野観音霊場二十六番高麗山聖天院となっています。

私が来たのは、高麗神社のほうからだったので、このまっすぐ前の道は、帰りに通りました。

赤い橋のようなものありましたよ。