霊厳寺では、ご住職の奥様だと思うのですが、どの道を通ったらいいのか、地図まで渡していただきまして、丁寧な説明を受けました。

巡礼をしていると大変なことも多いですが、このように親切にしていただけると無性に嬉しくなってしまいます。

霊厳寺の寺標となる石碑には、「武蔵野三十三ヶ所」とあります。ここ霊厳寺は番外なので、それで「霊場番外一番」と刻んでありました。

番外が増えたら、番外2番とかできるのかなと思いました。

それにしても、霊厳寺の文字が顔のようにみえるのは、口の形が目に見えるからでしょうかね。

さて、上の写真に寺標の石碑の裏手に山のようにみえる森のような場所があります。

そちらに向かって行くことができれば、高麗神社がある方面になります。高麗神社の近くには次の札所である「聖天院」(高麗神社と聖天院は密接な関係があります)があるのです。

ですが、なかなか思うようにはいかなくて。。。


霊厳寺は途中で入定塚、寛政の即身仏のところを通った

紫陽花のきれいな時期でした。途中にはこのように紫陽花の街道のような場所もありました。

ここ霊厳寺は、高麗神社の近くになり、裏に流れる川を渡ればすぐの場所にあります。裏手の高麗川がぐにゃりと蛇行している場所に霊厳寺はあります。

しかし川を渡って近道となるところにかかっていた橋が壊れてしまって、遠回りをして次の札所に行かないといけないと住職の奥さまから教えていだだきました。

「本来ならその橋が使えたら、歩き巡礼の人ならすぐに行けるのですけどね」とおっしゃっていました。

残念ですが、少し遠回りをして歩いて次へ行くことになりました。

歩き巡礼だとついついショートカットしたくなるのですよね。でも道端でお地蔵様とか、祠とか見ながら歩くことができます。

ここ霊厳寺に着く前には、入定塚、寛政の即身仏という場所も通りました。入定塚は、関東中心に見られる供養塚だそうです。

霊厳寺の16世が寛政16年8月5日に入定。「天明飢饉の残りの払拭や重い年貢への解消のため即身成仏への荒々しく厳しく苦難行をし入定修行」したそうです。それを慕うため、道路拡張工事などで何度も移動した塚を改修して、安住の地にしたとのこと。

平成18年に完成したと書いてありました。

寛政の即身仏とのこと。

すごいことですね。塚を信じて仰ぐものは、初志貫徹だとか、出世確実、願望達成だとか、書かれてました。

即身仏は、私の母の故郷の山形県に多くあります。それもこのような飢饉や重い年貢の解消のためだったのか。

見ていて、けっこう怖くなりました。

 


霊厳寺は高麗神社の裏手にある

さて、霊厳寺に着きました。総開帳の立て札とその裏手にみえる霊厳寺の本堂です。

立て札には終わりの日が書いてなかったのは、作り直しをしたのでしょうか。

少しだけ庫裏、御朱印をいただいた寺務所がみえます。

本堂前には回向柱がみえますね。



お地蔵様と石塔です。かなり古くからあるもののようでした。

その隣には日高市の説明書きです。

「霊厳寺の草創は明らかでないが、千年以前と伝えられている。寺号の由来は、境内が川に囲まれ、形が農具の箕のようになっているので箕輪山、満行上人の開基に因み満行院、霊厳が湧出しているので霊厳寺になったといわれている。

当時は明和の初め、火災によって山内の本堂、山門、庫裏を全て焼失したが、明和六年(1769)に中興十代秀照法印によって本堂が再建された。この火災の際に、本尊である地蔵尊を描いた掛け軸は、火中より飛び出し、本堂の前にある桜の枝に掛かり、難を逃れたと伝えられている。

なお、堂内には観音像、勝軍地蔵尊が安置されて、甲冑一式なども保存されている。

また、寺内には中興開山の人といわれる宥仙の功績を記した明徳三年七月十三日(1392)の石碑が建立されている」

と、昭和57年3月現在の説明がありました。


箕輪山満行院霊厳寺の本堂

こちらが霊厳寺の本堂です。箕輪山の箕は、先ほどの説明にも書いてあるように農具です。

脱穀のための先すぼみのざるみたいなバスケットみたいものです。籾殻の殻を飛ばすような道具なのですが、その丸くて先すぼみになっている形が高麗川の蛇行している形に似ているのですね。

私は観音様目的ですが、勝軍地蔵尊も気になりますね。甲冑をつけた勝軍地蔵尊だそうです。

掛け軸の地蔵尊にはいろんな伝説が残されているのだとか。

中はよくみえなかったです。

本堂に向かって左手には、神社のような祠がありました。



こちらの霊厳寺ではお手綱が垂れ下げられていました。

いつも通りの御開帳なのでしょう。

他の寺院では巻き上げられていましたが、さすが、飢饉の時に入定修行した僧がいるお寺だけあります。

飢饉や重い年貢に比べたら、気にしていないのでしょうね。

風で飛んでいたので、本堂に向かってではなく、庫裏のほうに向かってしまっていますが、お手綱の写真を撮りました。

そのおかげで、本堂脇の弘法大師の修行像がみえます。


本堂から回向柱の方面を写真に撮りました。

これが説明書きにもあった「桜の木」でしょうか。

枝垂れ桜ですね。かなり立派なものです。春でしたら、きっと見事な桜が見られたことでしょう。

御開帳始まってすぐくらいだったら、間に合ったのかな。枝垂れ桜は開花が早いと聞きますがどうでしょう。

この桜の木に地蔵尊の掛け軸がかかっていたのかなと思いました。



こちらは本堂の左手にあった祠です。

大権現とか大明神です。神仏習合時代の名残でしょうか。

「榛名大権現、愛宕大権現、稲荷大明神、疱瘡大神、熊野三社大神」と書かれていました。

本堂の中には、蚕影さんと呼ばれる養蚕の神様もいらっしゃるとのことでした。

 


岩場には箕輪観音も

こちらは本堂の左手にある神社の祠のような場所のさらに左にあった岩場の山のような場所です。

岩場の山の上には、箕輪観音様です。この岩場のまわりは、ちょうど工事中のようでした。

この裏手みえる緑の木々がありますが、そちらに高麗神社がある方面になります。

高麗家住宅が高麗神社のそばにありますが、その裏手も高麗神社の裏手も山のようになっています。

緑の木々はその裏手の山のような場所です。高麗神社の水天宮に行ったことがある人なら、あの場所へは小高い山を登りますが、高麗神社の参道左側は小高い山になっています。

小高い山については、次の札所である聖天院での写真のほうがわかりやすいかと思います。

霊厳寺のまわりは、川あり山ありの場所です。昼間はいいのですが、夜になったらちょっと寂しい場所なのかもしれませんね。

そう言えば本堂には、他に大蛇の骨も保存されているのだとか。


箕輪とは霊厳寺のまわりが箕の形だから

高麗川の様子がわかるようにと本堂の裏手に行きまして、高麗川の写真を撮りました。

このようにすぐ裏手に高麗川が流れています。

この川さえ越せば、裏手には高麗神社などがある場所へ行けます。目の前にあるのに高麗川のために回り道です。

高麗神社と次の札所である聖天院は、同じく高麗に関係する神社と寺院です。神仏習合時代だったら、同じ場所だったのでしょう。


道案内の地図まで用意されていた

冒頭でも書いたのですが、寺務所には、木の箱があって、御朱印紙、納経紙と書いてありました。

そのすぐ脇には、書類棚がありました。交換納経入れとなっていて、そのほかには、次の札所である26番聖天院、27番勝音寺への道、さらには、25番の円泉寺への地図まで用意されていました。

不在の時にはここから御朱印を差し替えすればいいのです。

しかし、私はお姿もいただきたかったので、聞いてみたら、ご住職の奥さまがちょうどいらっしゃって話を聞くことができました。

親切に対応していただいて感謝しています。

本当なら、本堂裏手に橋があるが、昨年の台風で壊れたままだとか。橋が使えたら、もっと近くに次の札所があるのに、とのことでしたが、元来た道を戻りながらゆっくりと歩くことにしました。

眺めのいい場所も歩けましたし、出世橋も渡ることができたので、これはこれでいいのかなと思いました。