武蔵野三十三観音のめぐりをしていますと、次の番号のお寺さんまでかなり遠い場合と、すぐ近くという場合があります。

最初のほうで言えば、2番と3番はほぼお隣というくらい近いです。

歩き巡礼の人のほうが便利なくらいです。今回の実蔵院から新光寺へも車でいちいち行くよりは、歩き巡礼の人のほうがいいと思います。

今回の新光寺も9番の実蔵院からすぐの場所にあります。とはいえ、私は新光寺と実蔵院の両方に行ったのですが、実蔵院は寺務所が開いていなかったため2度参拝です。

その日、新光寺は寺務所が開いていました。

雨の日の新光寺の写真となります。

雨に濡れていますが、武蔵野三十三観音第十番霊場 遊石山新光寺と石碑に書いてあります。


所沢市の新光寺は山門が見事

私の場合、時々あるのですが、グーグルマップを使っているとお寺や神社の裏につれて行かれることがあって、今回もこのように裏手に最初行きました。

しかし、裏手というのは、なかなか行かないものですから、それはそれでいいかなとも思っています。裏手からはどのような光景なのか垣間見ることができます。

八角形のお堂が見えます。これは比較的新しいなと思いました。


ブログ冒頭の山門に目が行ってしまいますよね。

しかしそちらのほうから入るのではないのです。

山門は使わずにすぐ隣から入りました。

入ってすぐのところにある看板に「馬の町の寺、所沢観音 新光寺」の文字が見えました。

寺伝によれば、遊石山観音院と称して、本尊の聖観音菩薩は、行基の作と伝えられているそうです。

その他、書いてあったことは、

「慶安二年(1649)に観音堂領として、幕府から六石の朱印が出されている。

寛政二年(1790)の寺社書上には、「三間四面のお堂」との記載されている。

草堂に観音堂を安置したのが始まりで、所沢地方の人々に信仰されて来ている」

ということがわかりました。


かつては馬の祭りがあった新光寺

現在の新光寺の「観音まつり」は、その昔、「馬のまつり」として有名だったそうです。

先ほどの看板にも書いてあったのですが、馬が唯一の交通手段だった時代、馬に対する尊敬の念から、年に1回、馬に対する慰労と、交通安全の祈願をする初午の行事として、初観音の縁日を「馬の町」と呼んでいたそうです。古くは、2月18日、馬が本堂のまわりを回ったそうです。

現在は、暖かくなってから、桜が満開の頃となる4月18日に行われているそうです。

以前は、旧暦だから2月でも今なら3月中旬くらいでしょうか、いずれにせよ、春だったのでしょう。

それに、暖冬となった日本では、3月下旬に桜が咲いてしまいますね。

そう言えば、札所4番の如意輪寺でも、その昔、境内で馬が駆け巡る「馬駆け市」があったことを書きました。

その様子を描いた絵馬が如意輪寺に残っている、ということで。

それと同じく、馬を中心にしたお祭りがあったのです。

新光寺は今では、馬を見ることはできないですが、「観音まつり」として残っているということですね。

さて、新光寺に入りますと、写真のような石仏がたくさん並んでいます。

最初に目に止まったのが、「北向観音」ならぬ「北向延命地蔵尊」です。

向いている方向が北向きなのでしょうか。



不動明王、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩、薬師如来、大日如来などたくさん並んでいますね。

まわりにずらっとあるのは、十三仏でしょう。

上の写真でもわかるように今は、葉っぱですが、枝垂れ桜が中心にあるようでした。

 



さらに本堂のほうへと歩くと、子育て地蔵尊もありました。

十三仏は円を描くようにして安置され、北向地蔵尊と子育て地蔵尊が両脇を締めるような配置です。

 


福寿稲荷社の赤い屋根と鳥居

さらに参道を歩いていくと、稲荷社がみえました。福寿稲荷社です。なぜか鈴が石柱の上にありました。

お寺にありがちの稲荷社ですね。

ふとお社の左手を見ると実蔵院と同じく、弘法大師と御本尊が並んでいます。

実蔵院と同じ、と思ったら、やはり、新光寺も奥多摩新四国八十八ヶ所の霊場だったようです。

狭山観音霊場であることと、武蔵野三十三観音の霊場は知っていたのですが、奥多摩新四国の霊場だったとは知りませんでした。

 


観世音菩薩もマスクをしていた(貴重なお姿)

美しい八角形のお堂が観音堂です。法隆寺夢殿を模して造られたといわれるのが納得する美しいお堂です。

観音堂の両脇にはイチョウの木が立っています。イチョウの葉が黄色くなってからは絵になる光景が見られそうです。秋に武蔵野三十三観音めぐりをする人は、ぜひ、その光景をお楽しみに。

新光寺では新観音堂と旧観音堂になるのでしょうか。奥にも観音堂がありました。

八角形のお堂の前には、マスクをした観音立像がありましたよ。このような光景は、もう二度と見られないだろうなと写真に保存です。

「慈眼視衆生」の文字がありました。

慈眼寺という名前にもなる「慈眼視衆生」慈しみの眼で大衆を平等に見てるということですね。

その前には、あごを乗せて横たわっているような二匹の龍の彫刻です。

鐘を守っているのかどうか。

 


八角形のお堂の観音堂と古びた観音堂と

八角形のお堂はそれはそれで美しいデザインでいいのですが、その後ろにある観音堂も彫刻がすごいです。

古いほうの観音堂は同じままなのでしょうか。

新光寺は、鎌倉時代からも知られたお寺のようでした。

鎌倉街道の傍らにあるからか、建久四年(1193)には、源頼朝が那須野に鷹狩りに向かう途中、新光寺で昼食をとった折、その幕府の地を寄進したとのことがいくつかの地誌にかかれているそうです。

元弘三年(1333)には、新田義貞が鎌倉攻めの時に必勝を祈願し、帰路再び立ち寄って、取られていた土地を寄進しているそうです。

このように新光寺は、歴史があるだけでなく、所沢の地ではかなり有名なお寺だったようです。


観音堂の彫刻にも注目を


見事な彫刻の古びた観音堂です。

残念ながら、八角形のお堂も、こちらの木造のお堂も扉が閉まっていました。

新光寺の前には東川が流れていますが、新光寺のところでは、下に潜って流れているそうです。

所沢の字の元になっている「野老沢」(ところざわ)の「野老」が山芋のことなのだそうです。

平安時代の初め、在原業平が東下りの時に所沢を訪ね、東川の両側に「野老」(山芋)が茂っていたので、在原業平がこの地は「野老の沢なのか」と言ったということから来ているそうです。

これが野老の沢、すなわち野老沢、所沢ということです。

この新光寺の前には東川が流れているのですが、新光寺の境内の下を通っています。



こちらは旧観音堂と呼ぶのでしょうか。こちらの観音堂の前に、狭山観音霊場めぐりをしているとすぐに見つかるいつもの立て札がありました。狭山観音霊場としては、第8番です。

武蔵野三十三観音も、狭山観音霊場も同じ御本尊でしょう。聖観音です。

こちらに安置されているようなのですが、残念ながら、扉が閉じています。

野老が山芋であることは、新光寺の入口にあった看板にも書いてありました。

新光寺だろうと思われるのですが、観音院に住む山伏が酒の肴に「野老」を出したということが記されているそうです。

 


もと来た道を戻って、納経所へと行きました。いつもの小坊主が指し示す方に行きます。

こちら新光寺の住職は、親切な住職ということが口コミにも書かれていました。

そのとおり、丁寧に御朱印を書いていただきました。高齢の住職さんですが、時間をかけて書いていただきました。

 



ここ新光寺の寺務所で、はじめて武蔵野観音霊場の納札と納経を入れる箱(納札・納経箱)を見ました。

見ていたのに、気が付かなかったのか、元からないお寺ばかりを先に巡っていたからなのか。

この新しい箱に、納め札を入れさせていただきました。

隣に竜宮城のような山門の絵がありますね。



最初は、表から竜宮城のような山門を写しましたが、帰りは境内から見える山門です。

この山門は、竜宮門とも呼ばれているそうです。

オモテから見たときも、彫刻がすばらしいと思いましたが、裏からみても彫刻がすばらしい。それとこの竜宮城を思わせるデザインのかっこいい山門です。

入る時は、気が付かなかったですが、山門の扉がなんだか目のように見えました。

両目を開けてみているかのように感じたのでした。

それにしても、このかっこいいデザインの山門ですが、扉が開く時はあるのでしょうか。

初詣の時はどうなのかな。それか、4月18日にあるといわれる観音まつりは、開くのでしょうか。