実は、この山口観音、金乗院ですが、2回、参拝しています。翌日から御朱印を再開するという前日に行ってました。

一度目は行ってみたら、上の写真にあるように、仁王門のところに貼り紙があるのを見つけました。「御朱印の中止について」と書いてありました。

「当面の間は、朱印帳等の書き入れはできません」と書いてありました。

参拝している人は他にもいたのですが、御朱印はやっていないとありました。御朱印や巡礼、武蔵野三十三観音目的ではなく、お寺に行ってみたかった人や、本堂裏手の水子地蔵尊にお参りに来ている人たちのようでした。

 


西武球場前駅から近い観音様は山口観音

こちらが仁王門をもっとそばで撮ったものです。仁王様も少し見えますね。

柱に貼ってあった先ほどの紙です。

寺院によっては、巡礼の御朱印の帳面にはかきませんが、差し替えはしますというところもあります。

それと。ここ山口観音は、狭山観音霊場でもあったので、狭山観音のほうは何月何日から開始なのか聞いてみることにしたのです。

もちろん、お寺に参拝するのが目的ですが、念の為ということです。


翌日から山口観音の御朱印再開の日に行った

1回目に行ったときの山門のところの六地蔵です。

それが次の時に行ったら、紫陽花が咲いていました。

このように違った面も見ることできたので、2回行ったことも無駄ではないのです。

 



 

それより何により、山口観音はかなり見るべき場所が多いです。

私も2回に分けたのが正解でした。

全部見て回れていなかったからです。


所沢市にある山口観音のお隣は狭山不動尊

上の写真は、2回目に参拝に行った時のものです。

仁王門の柱に貼ってあった貼り紙もありません。今度は、御朱印がいただけます。

この仁王門は、貞治年間に造られた門だそうで、どうりで古いものだと思いました。1363年頃ですね。

西武球場前駅から歩いて行ったのですが、金乗院へ行く途中には、不動明王を祀る狭山不動尊があります。


新田貞義公の白い馬は霊馬

山門前の階段を上がると、右手に見えるのが、白い馬です。

お堂が馬小屋風ですね。

新田貞義公の霊馬です。霊馬の像と書いてあります。新田貞義公の白い馬で鎌倉攻めの時、共をして戦が鎮まってから、ここにて余生を送ったとのことです。新田貞義がここで戦勝を祈願して、のちに馬を寄進したことから作られています。

勝負する人に霊験あらたかな像なのです。なんせ戦勝したのですから。その他、合格祈願にもいいですね。

「私は新田公の霊馬です」と書いてありました。鎌倉入りして忠誠を尽くしたとのことです。

「その後、公の仰せにより当山を守護し、余生を送り、今から五百年程前、私は生まれ変わりました。昭和四十三年、解説会の御奉仕で建物が建て替えられました」

とあります。平成十一年にも建て替えられたそうです。

参拝すると、勝運と商売繁盛を授けます、という頼もしい霊馬です。

あとで調べたら、なんと「歯ぎしり」にもご利益があるのですって。


本堂へ他にもお堂がたくさんあり

霊馬の前を通っていきますと、正面に本堂が見えました。

御開帳の立て札もあります。開創八十周年と書いてありますが、こちらの金乗院では、開始の令和2年4月1日よりの部分は書いてあるのに対して、終わりの日が書いてありませんでした。

消えたのか、それとも最初から書いてなかったのか。

いずれにせよ、参拝している人もいたので、私も参拝はしておきました。



御朱印は中止でしたが、回向柱のお手綱は、巻き上げになっていないで、下に下がっていました。

しかし、柱に着いていて触ることは困難になっていました。

無理して触ることもできなくはないですが、そこまでしなくてもと思いまして、お堂の中へと入りました。

 



観音様のご真言がかいてあります。

この金ピカの塔も気になりますが、それよりも上に掲げられた額です。

かなり古びた歴史あるものに見えました。


本堂の右手のほうの掲げられた額です。

七福神のようにも見えます。

奥には、お賓頭盧さまがいらっしゃいます。その上にも古びた絵が掲げられていました。

昔の人は、こうやってお寺や神社に奉納していたのですよね。


回向柱を中心に本堂からみた境内

回向柱を四方八方から写真を撮ることによって、本堂の周りの雰囲気を出してみようかと思いました。

手前にもかなり古い柱がありました。これは平成29年の時のものでした。



こちらは、本堂に向かって左手を中心に写した写真です。

こちらの柱には、梵字が書かれていますね。


今から3年前の平成29年4月29日と書かれた柱です。

その隣にここ金乗院には、どのようなものがあるのか、書いた案内図がありました。

ここの本堂のほか、仁王門、弁天池、新田貞義霊馬堂、閻魔堂、開山堂、七福神堂、鐘楼堂、西向釈迦堂、水子地蔵尊、八体守護仏、奥之院五重塔、大日堂、法要殿などです。

本堂にも裏側に観音様がいらっしゃいます。


本堂の周りには梵語が書かれた鐘

マニ車というのでしょうか。これは印度、ネパールで造られた鐘だそうです。

梵語で書かれた経文が刻印されています。

中には、経文が納られているそうです。これを廻すことで、お経を読んだことと同じことになります。

お経を知らない人でも、そして字が読めない人でも廻すことでお経を読んだことと同じ功徳になります。

全部で百八あるとのことで、煩悩と同じ数です。


裏観音にて参拝

山口観音で忘れてはならないのが、この裏観音です。本堂の裏側にあります。

裏観音の由来が書いてありました。

「当山の本尊様千手観音は今から千二百年程前行基大士の調刻と伝えられ、秘仏として、何時も宮殿の中に祀られており、そのお姿は三十三年毎のお開帳の時以外は拝む事が出来ません。そこで今から八、九百年程前(藤原時代)に本尊様と同じ形の千手観音を刻み、後側にお祀りしたのが此の裏観音です。

昔の人は表に参で参詣し、本尊様の扉が閉まっているので、後側に廻って裏観音のお顔を拝まないと御利益がなかったと云われております。数年前から祀られている水子の諸霊も常に観音様に見守られております。

皆様の頭の上は昭和五十五年夏に中国より招来された水子の観音様です」

と書いてありました。

御本尊は三十三年ごとに御開帳ということで、ここの裏観音を拝まないとご利益がないのですね。

この由来が書かれた額の上にもかなり古そうな観音様の絵が掲げられていました。


こちらが裏手の水子の観音様と水子地蔵です。

そのまた上にもビルマからのお釈迦様と書いてありました。日本ではじめてだそうですよ。


そばによって見ましたら、たしかに日本とは違った雰囲気のお釈迦様です。

ビルマの竪琴ではありませんが、ビルマからはるばる来日されたわけですね。



本堂の右手には納経所があります。
念の為、いつから御朱印が再開されるのかと聞いてみたら、明日からとのことでした。

狭山観音霊場、武蔵野三十三観音、奥多摩新四国八十八ヶ所、武蔵野七福神の札所になっているようでした。


中華風の龍もいた

山口観音、金乗院は、中国より観音様がいらしただけあって、ところどころ、中華風なところがあります。

こちらは、本堂裏手の坂になっているところです。

階段の手すり部分に龍がいました。

かなり長いです。周りは竹林でこれまた、中華風に見えます。



上まで登って龍のしっぽのほうから写真を撮りました。

下にみえるのは、大日堂です。

つつじの花が終わりのころで、ところどころに見えますね。


奥之院の五重塔はお正月に入れるらしい

龍の階段のところから、奥の院へと行きました。

私が行った時は、もちろん五重塔の塔の中には入れませんでした。

それにしても見事な五重塔のですよね。中に入れる機会があったら、入ってみると眺めもよさそうです。

その代わりと行ってはなんですが、塔の下では四国八十八ヶ所巡りと西国三十三観音めぐりができますよ。


仏国窟入口から入って四国八十八ヶ所と西国三十三観音を詣でる

どうやら最初は、西国三十三観音の本尊をお祀りしていて、その後、昭和五十年になって、四国八十八ヶ所霊場の御本尊も安置するようになったようです。

 


中に入ると四国八十八ヶ所の御本尊を拝むことができるようになっていました。

昔は、なかなか四国までいけませんでしたからね。



先ほどの龍の階段を登った上にも壁に龍がいました。

そこから下の本堂を写してみました。

こちらの白いお堂にもお釈迦様のお堂です。西向釈迦堂です。


こうやって下を写すと、高さがわかりますか。

龍の階段を登って奥之院の下から写しています。

脇から下に下がっていきました。

 


六時の鐘は一打が百円

一打につき百円を払うそうです。私は鐘を打っていないので、下からだけ見ています。

ここの鐘楼堂は、安永二年に建立されたそうです。第二次世界大戦まで鐘を打っていたのですね。

大戦末期に供出されたそうです。

昭和四十七年からの本堂や諸伽藍の解体修理で修復されたそうです。

昭和四十九年に鋳造され、本堂の御本尊に向かって叩くように配置されたとのこと。

一回叩いたら、ネパール招来の祈願用ベルを廻して一周するそうです。私はそばまで行っていないので、どのようなものかみていません。

それにしても朝夕六時に自動的に鐘を打つようになっているとは、自動化なのですね。

 


ぽっくりさんと七福神

本堂の左手には、これまた中華風のお堂です。

ひとつは、「ぽっくりさん」と書いてありました。

もう一つは七福神です。

 


武蔵野七福神としては、布袋尊のお寺のようでした。

それにしてもこの龍や獏や彫刻が中華風です。


こちらが、左手にみえた「ぽっくりさん」です。

元禄年間当山に遊学した時高野山の地蔵を招来したものだそうです。

弘法大師様が入定(死亡)された時、振り返って見送られたままのお姿は大変貴重な形とのこと。

このお地蔵様を信仰する人は、永い病気をすることなくお地蔵様によって極楽浄土へ見送られます、と書いてありました。

 


山口観音にもいろいろと、指定文化財があります。

御本尊の千手観音はもちろんのこと、算額、富士市鷹狩図大絵馬など、大絵馬が3つほどありました。

朝鮮式銅鐘もありました。

 


本堂の脇、七福神のお堂の前には、神仏習合時代のものでしょうか。勢至堂に住吉大明神がお祀りされていました。

その隣には稲荷社、天女稲荷大明神です。


大日堂に八体守護佛

さて、先ほど奥之院に行く時に龍の階段を見ましたが、その時、下に見えたのが大日堂です。

大日如意様ですね。

その手前には加持水の井戸がありました。

弘法大師が湯殿山に行く途中、ここの地で、行基作の観音様について告げられ、お堂を立てたそうです。

その翌日より千座の護摩をするために閼伽水を探したところ、神龍が弘法大師の徳に感じて浄水を湧かせた水、それがこの加持水だそうです。

手前に見えるのは、子育て観音様かな。



大日堂の左手には、八体佛がありました。

守護佛です。

十二支の方向には八体の仏様がいるとされ、生まれ年の本尊になります。

これは12で、八の仏様では足りないではないかと思いますが、2つ兼ねている仏様もいらっしゃいますからね。

 


ご覧のとおり、東西南北のほか、東南、南西、北西、北東を守る仏様です。

千手観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、不動明王の八仏です。

 


本堂に上がる前の手水舎のところにも石仏群がありました。

水屋のところにも観音様の像が立っていました。

帰り道、閻魔堂にも立ち寄りました。


本当に、見どころ満載ですので、山口観音、金乗院に行く時は時間を十分に取っておいたほうがいいです。


仁王門の先に弁天池があって弁財天様が

もう少しで見ないで帰ってしまうところでした。

行きは仁王門を見ていると、その後ろ側になるのですが、弁天池があります。

帰り道には気がつくと思います。

そこには弁財天様がいらっしゃいます。

その先に見えるホテルが、観音閣となっていますね。

さすがに山口観音の真ん前ですからね。


二度目に行った時の仁王門

先ほどもいくつか写真を出したのですが、二度目の参拝の時です。

前回は、聞いてみたら、明日からまた御朱印を再開します、とのことで、なんと1日早く来てしまっていたのです。

すぐに翌日、参拝できればよかったのですが、1週間後くらいでしょうか。やっと参拝できました。

今回は狭山観音霊場としての御朱印と、武蔵野三十三観音の御朱印をいただきます。

仁王門のところには、紫陽花の花が咲いていました。これも二度目に行ったから見ることができたわけですね。


前回行った時は、本堂の前のお守りなどを置いてある場所も扉が閉まっていましたが、今回は開いていました。

武蔵野七福神の色紙なども売っているようです。

それと布袋尊でしょうか、お姿もありました。

御開帳の札がある先に見えるのが、どうやら、山口観音の指定文化財となっている朝鮮式の鐘、高麗王の梵鐘みたいでした。

あまり気にも留めなかったのですが、本堂に掛けられているとのことでしたから。


本堂の御本尊は、三十三年ごとに御開帳ですから、お会いすることはできません。

しかし、お手綱を通じて握手ですね。


見ることはできませんが、こうやって綱はつながっていることはわかります。

裏へ廻ると、毎日、裏観音様がお開帳されてます、と書いてありますので、参拝する人はみなさん、裏手に回りますね。

裏手の観音様もかなりの歴史ある観音様ですからね。


大きな絵は、大絵馬だったようです。

指定文化財とは、別のもののようですがどうなのでしょう。

こちらもかなり古そうな感じがします。


先ほどの本堂内にあった絵よりも、本堂の外のマニ車の上に掲げられた絵は、新しいものに感じました。

そうそう、裏観音様にお会いするには、手前の木戸の小さな穴から覗き込んで見ることになります。


新田貞義公にまつわる櫻の木もあり

紫陽花が咲いていることからもわかるように、二回目に行った時に、この誓の櫻に気が付きました。新田貞義公鎌倉攻めの際と書いてあります。

しかし、残念ながら、櫻の季節は終わっていました。葉桜になっています。どのような桜なのでしょうね。

 


前回写真を撮るのを忘れた弘法大師の像のところです。お地蔵様がいくつかありました。

昔からはやり病はあったようで、1200年前に当地に来た弘法大師は、当地に悪い病気が流行していたのですが、弘法大師の護摩修行の結果、悪病の次第に治まり明るい生活に戻ったとのこと。

弘法大師の徳を偲んで、五十年毎に盛大な年忌法要が行われるそうで、昭和五十六年に行われた千五百年忌法要でこの弘法大師像が建てられたそうです。


仁王門の階段のところには茶屋もあり

仁王門の階段を上がったところに茶屋があって、お蕎麦など売っていました。

私は入らなかったのですが、前回も写真を撮っていなかったでこういうお店もありますよ、ということです。

このようにとにかく、見どころ満載ですので、おそらく一回行く程度では全部を見て回ることができるかどうか。

二度くらいにわけていくか、十分に時間を取ってゆっくり見てまわるといいでしょうね。