今回は、お寺の本堂や観音堂のみならず、奥の院まで行ったことも書いています。桜の咲いている3月に行ったときの写真です。山を背景に桜が門前にありました。

札所26番ですが、実は、奥の院が札所なのです。

しかし、けっこう大変な場所にあるので、バスツアーなどは本堂や牡丹が有名なお庭を参拝して終わり、でしょう。

せいぜい裏道を通って、札所27番へ行く、程度でしょうか。


円融寺の本堂だけでなく可能なら岩井堂まで参拝を

美しいお庭の円融寺です。桜がきれいです。

そのうえ、参道からの眺めもきれいですね。

参道の脇には公園のようにみえる場所もありました。

 



本堂へ続く階段の脇には、観音様でしょうか。

それと枝垂れ桜みたいな木も見えました。

 



こちらが本堂へ上がる階段手前の参道脇の公園っぽい場所です。

このようにきれいなお庭も見て楽しめます。


桜とお庭が楽しめる円融寺

松と桜です。

この階段を登って本堂へ行きます。

ご本尊は、本来の札所である岩井堂ではなく、現在は、ここ円融寺の本堂にいらっしゃいます。

恵心僧都作、と伝えられる観音様は、こちらの円融寺の本堂で祀られています。

ですから、ここで読経するのは、正解なのです。

 



ということで、まずはこちらで参拝します。

その後で、このまっすぐ前に見える寺務所にて御朱印をいただきます。

 



円融寺には、石燕の納額「景滑のろう破り」という埼玉県指定有形文化財があるそうです。

「鳥山石燕(せきえん)は狩野派の画家で、正徳2年(1712)に生まれ、天明8年(1788)に77歳で没した」という狩野派の画家が書いたものです。
秩父市のホームページによると、

額は明和元年(1764)8月に江戸護国寺で秩父札所総出開帳が行われ、その時奉納されたもので、奉納者は江戸小石川宮下町の田辺久作・五軒町の野島権左衛門の名がある。額は縦87cm、幅58.3cm、厚さ2.5cm、3枚の桧板をついだ絵馬風の板額で図の左寄り上部に白衣観音を緻密に描き背景には金箔を押し散らし、白毫(びゃくごう)から7本の実物鉄線による放光を表している。

江戸護国寺とは、あの文京区にある護国寺でしょうね。

秩父札所も出開帳が行われていたのですね。

白衣観音様からビームのような光が飛んでいました。

説明によると、実物の鉄線なのだそうです。

 

そのほかにも、円融寺の文化財としては、秩父市指定の文化財があります。

勝軍地蔵菩薩立像です。

秩父市ホームページに書いてある説明によると、

この勝軍地蔵菩薩立像は、像高121cm木彫寄木造、玉眼入りで、鎧の上に擐甲の袈裟をつけた像である。鎌倉時代の優秀作として注目されている。
なお、秩父札所二十六番岩井堂は、建久2年(1191)畠山重忠の祖父重弘を開基とするといわれている。

鎌倉時代の地蔵菩薩立像です。衣の上に鎧兜という勝軍地蔵菩薩です。

秩父市の説明でも、秩父札所二十六番は「岩井堂」となっています。



円融寺の左側には墓地があるのですが、その墓地手前には、育て子供地蔵菩薩

「お子様の健やかな成長をお祈りして頭をなでてください」ということです。

真ん中のお地蔵様は、比較的新しい感じがしましたが、脇のお地蔵様はちょっと古めです。

 



こちらは本堂前のお庭です。

こちらの桜は散ってしまっていますね。

龍の口から水が出る手水舎がみえます。

そのまわりは、牡丹の株ですね。葉っぱもまだ出ていません。


お昼休みだったので本堂の裏側にも

秩父の札所は、12時から12時30分まではお昼休みになっています。

ちょうど12時のお昼休みに到着したので、読経などしても時間があったので、本堂の裏側にも行ってみました。

ゴツゴツした岩がありました。

枯山水庭園のような印象です。



また本堂の手前に戻ってきました。

寺務所の脇に歩道のようになってお庭に続いているようなので行ってみました。

 



すると、そこには、牡丹の株がたくさんあったのです。

「未了の庭」と呼ばれる牡丹園であることがわかりました。

未了とは、まだ完全でないの意味。

「人間も仏の心に少しでも近づく為に、日々心を成長させて、一輪の花のように」後が読めませんが、

「只今を生きることが大事である」とのことです。

ここは、やはり牡丹の咲く頃がいいでしょうね。

今は、スカスカ状態ですが、牡丹の頃は違っていることでしょう。

ここまで見たら12時30分を過ぎていたので、御朱印をいただいてから岩井堂へと行きました。



未了の庭のほうから出ると、この巡礼道に出ます。

ここから岩井堂のほうへ行くことができます。

いったん、先程の来たときの舗装された道からもいけるようなのですが、私はこちらから出ました。

 


奥の院岩井堂や琴平神社へ参拝の人は昭和電工の工場内を通って行きます

ここの看板に書いてあるとおりです。

工場内は撮影禁止なので、工場外から案内板の写真だけ撮りました。

工場はいたって普通の工場ですが、その中にグリーンベルトという歩行者用道路があるので、そちらを歩きます。

まずは正面の受付まで行って、奥の院へ行くことを伝えます。

琴平神社にも参拝しましたが、琴平神社から脇に行く道へ行ってはいけないようになっていました。

琴平神社を出たら、次は岩井堂です。

 


まずは琴平神社に参拝

こちらが琴平神社です。

お昼休みだったのか、社員の方も参拝していました。

琴平神社を参拝するには、けっこう長い階段を登ります。

階段の手前には、さざれ石がありました。



琴平神社は歴史ある神社のようで、階段を登ると相撲の土俵が見えました。

さらに階段を登って、拝殿です。

拝殿の裏手にも岩井堂への道があるようです。

しかし私は、有名な石段を登りたかったので、拝殿の裏手には行っていません。


琴平神社は神楽と土俵に特徴が

「琴平神社の神楽」が秩父市の無形文化財に指定されていました。

神楽殿も古そうです。

琴平神社は金比羅さんだと思うのですが、縁日は10日ですよね。

こちらの琴平神社も毎月10日がお祭りだそうです。

秩父市のホームページによると、

琴平神社の祭りは、毎月10日である。この神社の神楽の伝来は、明治28年(1895)、日清戦争の勝利を祝し、秩父神社の付属神楽を佐野宗五郎より伝授され、翌29年神楽面装束道具一式を新調し大沼組・中下組・滝ノ上組の三組により奉仕されて来た。一時衰退したが、その後復興した。秩父神社の神楽とほぼ同様であるが、同神楽に比し大まかである。

なお、公開日は、1月10日・4月第1日曜日または第2日曜日・10月第1日曜日頃

ということで、金毘羅さんと同じく、1月10日にお祭りがあるようです。

それ以外は、4月と10月です。

しかし「頃」となっているので、その周辺の日曜日なのでしょうね。

秩父神社の神楽とほぼ同様とのことですが、「大まか」ということですよ。

秩父神社よりもこちらのほうが見たいなと思いました。



琴平神社と岩井堂の関係は、この簡略化された地図が意外とわかりやすいです。

琴平神社への階段も急な階段で、なかなかきついですが、これから先の岩井堂への階段もとにかく長いです。

現在地の少し先に「太子堂」とあるのは、聖徳太子がご祭神だからです。

 



こちらは、琴平神社の管轄ですね。

琴平神社の「聖徳宮」となっていました。御祭神が聖徳太子と二宮尊徳となっていました。

二宮尊徳は神様だったのですか。


岩井堂への約300段の石段を登る

聖徳宮から山道を少し歩きますと、見えてきました。

岩井堂へと続く階段です。

杉木立の中を登っていきます。まるで熊野古道のようです。

それもただただ石段という熊野古道よりも変化のない急な石段です。

 



これからの石段登りを励ましてくれるかのようなお地蔵様です。

うーん長いですね。

300段以上あるとのこと。

それでも自分のペースで登っていけばいいのです。

やがて岩井堂へと着くのですから。



ということで、岩井堂の手前まで来ました。

ここから更に階段がありますが、ここで札所27番や護国観音への道と岩井堂への道とに分かれるようになっていました。

秩父の札所は、このように至るところに道しるべがあるので助かります。


岩井堂は京都の清水寺を模した舞台造り

苦労して登ったかいがあります。

これはかっこいいお堂です。

さて、もう少しだけ登ります。


それにしてもこのような場所に造るのは、造るだけでも大変だったろうにと思います。

 






「秩父次郎重忠」と書いてある奉納額絵です。

「この寺は重忠の祖父の代より信奉され重忠は特に信奉して多くの霊験を受けた」

秩父次郎重忠とは、畠山重忠です。

先程の勝軍地蔵菩薩のところにも出てきた畠山重忠ですが、祖父重弘を開祖とするとなっていました。

岩井堂を作ったのは祖父の代ということでしょうね。

 

 



秩父二十六番、正観世音と書いてある額がかかっていました。

私が歩いて、壊れないだろうか。

心配するような場所に建っています。



岩井堂の裏手に行ったら、石の壁になっていまして、その開いたところにお地蔵様や観音様です。

気になる貼り紙がありました。

「この小道を五分登ると(約七十五メートル)、鋳造大仏座像(二メートル)、秩父修験堂等があります」

5分というのがミソです。

5分なら頑張ってみようかと思うではありませんか。

登ってみましたよ。

かなり急で這いつくばるような場所でしたが。



小道なので、私がゆっくり登っていたら、小学生を連れたおじいちゃんが通って、そちらのほうが早かったのです。

子どもでも登れる道ですよ、と山道紹介を見かけることがありますが、それをみて簡単と思ってはいけませんね。

子どものほうが早い!

私は、お先にどうぞと譲りました。

子どもたちは、お寺に興味があるというよりは、山登りが楽しいようでした。

 



やっと、5分です。

いや、もっとかかったような。

鋳造大仏像です。岩の上にお座りなっていました。修験道の行者たちが江戸に出て観音講を広めたそうです。その時に集めたお金で作ったといわれる大仏様です。

ここでしばし拝みまして、さらに上に登りました。



するとなにやら、小屋のようなものが見えてきました。

もしかして、これが秩父修験堂?

岩井堂以上に、こちらは壊れないか心配な場所に建っています。

 


武甲山を拝した修験道場でもあった修験堂

「再建」の文字がみえます。

再建秩父修験者堂と書いてあるのかな。

秩父修験堂ですが、この説明書きは琴平神社の宮司さんが書いていました。

「影森はその名の示すとおり武甲山の陰に位置し、立冬から立春まで日の出は遅く、その上水の使い悪く飲料水にも事欠く状態でしたから開発が遅れたことと思います。しかし、武甲山岩山が走り東の斎所山、西の護国観音の地は共に大きな磐境」と書いてありますが、真ん中がよく読めず。

あとは、

「このような地形を利用して秩父修験の行者たちはこの道を日に何往復もされ武甲山頂を拝し両神山をおがみ邪心を去り行を積まれました。こうした行者の方々が江戸に出て観音講を広め喜捨を受け、その寄進によって大仏を作りこの地に運び建てられました。観音様には正徳四年の年号と江戸の大勢の方々の戒名が記されています。二十六番の岩井堂と二十七番の河行堂、そして二十八番の御堂も行者の方々の努力と地元の方々の労力奉仕によって建設されたものであります。

この修験堂は正面の神仏に祈念をこめ外側の危険な廊下を一回廻り中央の十二支を一つづつ動かし、十二回回廊を回って元の干支がでて一回の行の目安にしたものです」

と書いてありました。

 



ここから武甲山、両神山など山を拝んでいたのですね。

この丸い円を回して、数珠のようにして数を数えて12回行っていたのですね。

干支が書かれていて、元に戻ったら、一回の行です。



中央の柱には、不動明王、北辰尊妙見大菩薩、護法喜神などが書かれた札がかけられていました。

「再建」ですから、昔とは違うものでしょう。

ここから先に行くと長者屋敷跡があるとのことですが、とにかく次の札所へ急ごうと降りることにしました。

 



岩の間にあるお地蔵様です。

急な道は、下りが大変なのですよね。

滑りそうになりながらもなんとか降りました。



再度、岩井堂の裏手です。

よく見ると閻魔大王像とか、石塔、供養塔などもありました。

今度は、札所27番方面に行きます。まずは、護国観音を目指します。



道端には石仏がありました。

ここの札所27番大渕寺への道は琴平ハイキングコースとなっています。


琴平ハイキングコースを歩く時は靴にも注意

ハイキングコースの人は、羊山公園のほうから、長者屋敷跡を経て、修験堂を通り、岩井堂を通って、護国観音を通り、札所27番の大渕寺を通って、影森駅に出るというコースだそうです。

私よりもずっと長い距離を歩くわけです。

 



途中はこのような岩場もあります。

綱につかまって登らないといけない場所もあります。

私は途中で金剛杖がほしくなりました。でなければ登山ストックですね。

子どもたちがこういう場所をハイキングしていくのですからね。若い方が軽々と行けるようです。



それとスニーカーだったので、トレッキングシューズか、登山靴がよかったと何度も思いました。

それでも腰を低くすればなんとかなりましたけど。



どなたかのブログで、この護国観音への道がわかりにくいです。

そのうえ、山登りなどしたことのない私が通るのですから。



私はあえて岩場を登ったような。

もっと別の楽な道もあったようです。

白くチラリと見える大きな観音様。



観音様への道端には先程も見かけたような形の石仏がありました。

岩の穴場にはこのような石仏があるのですよね。

 


護国観音様は白く大きな像でした



想像していたよりも大きかった護国観音です。

観音様はここから毎日、素敵な光景を眺めているのですね。

牡丹の時期に再訪しました

延命地蔵尊の石碑があった円融寺です。

西と書いてありますね。

牡丹が咲く頃に行く機会があったので再度行ってみました。

それも影森駅ではなく、西武秩父駅からの歩きでした。



本堂の中に入る前から牡丹がみえました。



こちらは、本堂前のお庭です。

赤っぽい牡丹やピンク色の牡丹など。

龍の手水舎が見えます。



以前みたように、寺務所の脇を通って未了の庭のほうへ行きました。

ここも牡丹があります。



未了の庭へ続く道も印象がかなり違っていました。

大輪の花がきれいです。これだけ大きいと見応えあります。



3月の桜の頃とは印象が違います。

牡丹が咲いていることもありますが、3月の時よりも木々が生い茂っていることが印象的でした。



3月は殺風景な感じだった子育て地蔵菩薩のところも木が生い茂っていました。

手前には牡丹の花です。

 



以前、桜の頃にみた「未了の庭」はあっという間に、緑が多くなっていました。

牡丹の咲く頃は緑が深いです。

牡丹は大輪の花であるのがいいですね。未了の庭を初めて見た時は、スカスカの状態で株しか見えませんでしたが、今見ると密集しているくらいに見えます。

 



桜も桜でよかったのですが、あの時期だとまだまだ寒かったから、常緑樹くらいしか緑がなかったように感じましたが、今回は緑が多くなっていたことが印象的です。

 



前回写真に撮った時は、遠くからだったので文字がはっきりしませんでしたので、こちらを。

文字だけでなく、「景清のろう破り」の絵も見えるかと思います。

以下、この説明書きから引用します。

「鳥山石燕は江戸中期の狩野派の絵師で、絵を狩野周信・王燕に学んだが、後に俳諧師、狂歌師など江戸の粋人と親交を結び、その影響から浮世絵師としても活躍した人物である」

「納額の大きさは縦86.5センチ、横58センチ、厚さ2.5センチで、写真のように桧板三枚に歌舞伎の名場面の一つである「景清のろう破り」と雲上から見守る白衣観音を描いている。牢格子や観音から発する光明に鉄材を用いて立体感を出すなど、工芸的な要素を持つ絵画である」

「向かって右隅に「鳥山石燕画」の署名、その下に雅号「零陵洞」円印と「豊雲」と刻した方印が捺され、左側には奉納者「江戸小石川・宮下町田辺久作、五軒町・野島権左衛門」と「明和元申八月」(1768)の年号が墨書てされている。江戸護国寺では、明和元年七月からの秩父札所の総出開帳を行っており、この納額はその際に奉納されたものである」

秩父市のホームページよりは詳しく書いてありました。