石碑と看板とダブルで書かれています。

このように札所5番の語歌堂は、無人になっていて、納経所は別のところ、長興寺になっています。

またもや変則的ではありますが、長興寺へ先に行って、納経を済ませてから語歌堂に行きます。

写経を納めるから、順番は許してもらいましょう。読経だったら、どうするか、ということもありますが。

なお、この時は曇時々雨の日だったので、晴れた日に再訪しましたので、下の方に貼っておきます。そちらのほうが鮮明に見えます。

鮮明にみえるほうの写真を先に見たい人は、目次をクリックして先にどうぞ。

 

まずは長興寺で納経して御朱印をいただく



先ほどの曲がり角を曲がって長興寺の方面に行きますと、住宅地の先に長興寺はあります。

その横の山のところには、赤い旗がみえました。お稲荷さんでしょうか。



納経所を指し示す、いつもの小坊主がみえます。

長興寺も立派なお寺で、見応えあります。

 



お地蔵様と本堂です。

本堂で手を合わせました。

こちらの長興寺は、享保5年にこの地に移ってきたそうです。



本堂に向かって左手には別のお堂もありました。

 



長興寺に着く前に遠くからみえた赤い旗が気になって、本堂ともう一つのお堂の間から裏山のお堂のほうを見てみました。

想像どおり稲荷大明神でした。

お寺さんと稲荷社は、なぜか一緒にあることが多いのですよね。なぜなのだろう。


七観音霊場の納経帳もあった長興寺

先ほどの六地蔵を山門の後ろから写してみました。

秩父のお寺も六地蔵があるお寺が多いですね。



なにはともあれ、納経です。

納経所に行きます。



長興寺に七観音霊場となってるようで、そちらの専用の納経帳がありました。

気になりますね。しかし、今は秩父34観音霊場を優先することにしました。

あとで調べたら、七種類の観音像のお寺で、語歌堂のことでした。

語歌堂の納経所なので、長興寺に専用納経帳が置いてあったのですね。

語歌堂の准胝観世音菩薩は、珍しい観音様で、札所めぐりでも坂東三十三観音にはこの種類の観音像が無いのだとか。


珍しい准胝観音様の語歌堂へ

語歌堂は本来は、お寺というよりお堂なのでしょうね。

周りに囲いや塀もなく、すぐに入れるようになっています。



山門と呼んでいいのかわかりませんが、門から入ります。

 



門には、仁王様はいましたので、仁王門になるかな。

秩父札所ではなく、七観音霊場の文字が見えました。

やはり、准胝観世音菩薩は珍しいのでしょう。

小川山語歌堂です。



仁王門のこちら側にも仁王様がにらみをきかせています。

阿吽の仁王様です。


聖徳太子と語歌堂

仁王門はありますが、まわりのどこからでも入れる語歌堂です。

田園地帯に立っているお堂です。

でも重要なのですよね。珍しい准胝観世音菩薩をお祀りするのですから。



准胝観世音菩薩の真言には、「じゅんていそわか」という言葉が入るのですね。

「おんしゃれいしっていじゅんていそわか」

慈覚大師の作と伝えられる准胝観音像です。



 

納札を入れるところに、納経所への地図がありました。

先に語歌堂に行ってからの人が多いでしょうから、これは助かりますね。

札所2番と納経所の光明寺に比べたら、距離は近くてほんのすぐ先にあります。



いつものように秩父の札所でよくみる奉納額絵です。

「旅人に化身した聖徳太子が御堂をたずね孫八と和歌の奥義を論じたことから語歌堂と名がつけられた」となっていました。

語歌堂の縁起について書いています。

ここの語歌堂は、長興寺の檀徒である本間孫八が営んでいたそうです。

そもそも孫八は和歌について暗いことを悩んで、このお堂にこもって歌道を学び祈念していたとのこと。

その後、旅の僧と和歌について語り合ったのですが、翌日、その僧は姿を消していたそうです。

それが聖徳太子の化身だったとか(別の説では、観音様の化身と書かれてましたが)。

和歌について語り合ったから、語歌堂なのですね。

 



語歌堂は札所5番で比較的早い番号なので秩父市にあると思ったら、この語歌堂は、横瀬町になっていました。

横瀬町指定の文化財です。

語歌堂の裏手にはお墓がありました。



仁王門のほかには何も囲いがなく、田んぼの中にポツンと立っているお堂というのがわかりやすいように、仁王門の裏手から写真を撮りました。

これでイメージが掴めるでしょうか。

このようなお堂が、七観音霊場や秩父札所唯一の准胝観世音菩薩をお祀りするお堂になります。

 

再訪時の語歌堂と長興寺(天気のよい日)



やはり晴れた日のほうが写真も鮮明ですね。


この日はよく晴れた日で良かったのですが、藤の花があともう少しの時期でした。

藤の花が咲いた時も訪問してみたのですが(御朱印はいただかず)、その時も曇り空であまりぱっとしない天気でした。

 



藤の花が咲いていて、なおかつ、天気がよい日となると、往復5時間かかる私としてはなかなかそれに合わせて訪問するのも難しいです。

 



語歌堂の境内にあった石ですが、何と書いてあるのか読めず。

境内には、お地蔵様や古くからあるような石碑などもありました。

 

昔の回向柱らしきものが建物下に見えました。


ほかにも以前に訪れた人の記録では、境内に竹巻きの煙火塔があるらしい(御嶽神社の花火の時に使ったらしい)とのことでしたが、私は見つけることができませんでした。



水屋の石は、天明六年と読めます。

仁王門の風神さまかな。





陽気に見える雷神さま。




仁王門の前に立つ石碑には、大正七年の文字がみえます。




お堂の前には、石灯籠が2基ありました。


語歌堂は二重垂木の建物として知られているそうです。

私は建築には詳しくはないのですが、正面舞台造りで、二重垂木。

御詠歌もかかっています。江戸麹町の文字が見えます。

この御詠歌額は「文化」時代なのかな?



「桁には胡麻殻模様で、虹梁には絵紋様」とのこと。

と言われても、よくわかっていない私ですが。



藤の花咲く頃はツツジもキレイな語歌堂

先程も書きましたが、藤の花が咲いた時も近くまで来たので行ってみることにしました。




藤の花は咲いていたものの、天気のほうがイマイチです。

歌碑らしきものがありました。「満州より」と読めるのですが、「母」という文字も。

なにかいわれのある歌碑なのでしょう。

先程も書いたように、長興寺の檀徒である本間孫八は私財と投じて観音堂を建立しましたが、和歌に詳しくないことを悲しんで、観音堂にこもって歌を学び、上達を祈念したという縁起もあります。

旅の僧と語り合ったのに、夜明けには僧の姿がなく和歌だけが残ったという和歌に関する縁起のある語歌堂。




天気はイマイチですが、観音堂前の石灯籠からみた藤の花とツツジの花です。

花はきれいだったのですが空が少し暗いですね。

札所5番と札所10番の間には



余談の話ですが、五番の語歌堂と十番の大慈寺の間の大通りに謎のバス停があります。

行き先は「本物の自分」です。ちゃんと「札所五番の語歌堂と札所十番の大慈寺」と書いてくれています。

 

「ここはバス停ではありません」の文字もあるように、これは本物のバス停ではなく、アニメ「ここさけ」(心が叫びたがっているんだ)のバス停なので、ここで待っていてもバスには乗れませんよ。



武甲山と鯉のぼりという組み合わせ。こちらは札所5番から横瀬駅への道を通った時のものです。

 

藤の花がきれいな頃は、鯉のぼりの時期なので、横瀬町で鯉のぼりまつりがあり、川のそばで(武甲の湯の温泉近く)で立てていました。

藤の花が咲いていた日は、横瀬駅から帰ったので、これを見ることができました。