今回は札所31番の観音院ですが、栗尾のバス停から歩いて行きましたので、その道すがらを紹介しながら観音院の話へと続けます。

行った時が、小鹿野町の花桃がきれいな時期だったからです。

秩父方面で花桃が有名なのは東秩父の花桃でしょう。テレビのニュース番組でも取り上げられたそうです。
しかし、小鹿野町の花桃もなかなか見ごたえありますよ、ということでまずはその話からです。

歩き巡礼の人なら、30番の法雲寺から歩いて31番に行くのかもしれませんが私は、法雲寺は後に行っています(ちなみに札所と札所の間の距離では、この30番と31番の距離が一番離れているのだとか)。

そのため、観音院は近くまでバスを利用しまたい。

なお、バス停から観音院までは、鷲窟山観音院と書いてある石碑の隣の看板に書いてあるとおり、2.7キロ歩きます。お寺内も歩きますので、約3キロですね。


小鹿野町の岩殿沢(花桃街道)のハナモモはおすすめ

観音院の前に、たらちね観音がありますので、その西晃山光珠院のたらちね観音を目指して歩きます。

秩父札所はどこへ行くにも看板や「巡礼道」と書いてくれてある札があるので、道案内はその矢印に沿って歩きますよ。

たらちね観音の看板の隣には、札所31番観音院と地蔵寺も書いてあります。


まずは母と子の幸せ祈るたらちね観音を目指す

先程の矢印に沿って歩きますと、法雲寺でも見た「三十一番入口」の石碑がありました。

法雲寺ではお寺の入口にありましたが、ここ観音院ではまだまだ先が長いのに、すぐに見えてきました。

すでに白やピンクの花がみえるかと思います。


しばらく歩くとすぐにハナモモ

観音院までの道のりは、岩殿沢のハナモモとして知られ「花桃街道」と呼ばれているそうです。

実際に行ってみると納得しますよ。住宅街にもハナモモですから。

このあたりの住宅は、石垣が多いです。なんでも観音院の裏手で石が取れるからだとか。

 



梅林のような場所も道沿いは、ハナモモです。

このようなピンク色の花を見ながら歩くことができます。

3月中旬から下旬にかけてこのような桃源郷のような状態なのです。

だいたい3月下旬が見頃だと思いますが、年によっては前後するかもしれません。




たらちね観音の手前は、菜の花とハナモモの両方を見ることができました。

聞くところによると、ハナモモはソメイヨシノの桜なんかよりもけっこう長く楽しめるそうなので、ハナモモの話題が出てから行ってもいいですね。

ハナモモの場合、約1ヶ月くらいは咲いているらしいです。桜は1週間くらいで見頃を過ぎますよね。



ハナモモだけでなく、桜もありますね。

そして、遠くに赤い橋が見えてきました。

その先が、たらちね観音だろうなと思いました。



赤い橋に「岩殿沢」と書いてありました。京都にありそうな橋です。

やはりこの一帯が岩殿沢のハナモモと呼ばれている、花桃街道なのでしょう。

 


たらちね観音の八つの祈願

橋を渡るとすぐに西晃山光珠院「たらちね観音」です。このお堂ではなく、奥の白いお堂のようでした。

たらちね観音は八つの願いを聞いてくれるようですよ。

「ご自由に御堂に上がり参拝下さい」とあります。祈願は御堂に上がって祈願します。

子授け祈願、安産祈願、子育て祈願、進学祈願、良縁祈願、延命祈願、幸福祈願、心願成就の8つです。

どれも母と子に関するお願いです。

子供を授かることのお願いだけでなく、母の長寿を願ったり、子供の良縁を願ったりという幅広い祈願に対応していますね。

ご自由にお堂に上がり参拝ください、となっていましたが、先を急ぎました。

この近くにお不動様のお堂があるみたいでしたが、これがそうなのか。



たらちね観音の御堂の先には、大日如来が祀られている大日堂がありました。

近くにはお地蔵様も安置されています。古い石碑もありました。

とにかく見てもわかるように、道沿いはハナモモです。


地蔵寺へ向かう道にもハナモモが満開

たらちね観音を後にすると、今度は水子供養のお地蔵様で有名な地蔵寺を目指して歩きます。

その道沿いも当然ながらハナモモです。

花桃街道といわれる所以です。

ハナモモはピンクの色が濃いものもあれば、白っぽい花もありますね。

ハナモモというと、私の中では濃いピンク色というイメージがありました。



もう少し歩くと、川が流れているのが見えました。

そのそばには、桜です。

これはよくみる桜ですね。桜も桜できれいなのですが、花桃街道ではやはりハナモモに負けてしまいそうです。

 



こちらは、まだまだつぼみが多いハナモモです。

遠くに桜が見えています。

このように場所によってはまだ蕾という木もありました。



川のそばには、水仙の花が咲いている場所もあったので、写真を撮りました。

菜の花も黄色ですが、水仙も黄色で、ハナモモに色を添えます。

まだ咲いていないハナモモもありました。

写真ではこの光景の良さが十分に出てないです。カメラの性能が良ければもう少しは伝えられるのに、と思いました。


圧倒的な数の水子地蔵


しばらくすると、2番目に目指す地蔵寺が見えてきました。

水子地蔵が数多くある場所だと前もって聞いていましたが、かなりの数のようです。

これはごく一部なのです。

遠くに桜が見えます。



地蔵寺の水子地蔵のあたりは、ハナモモよりも桜が主体でした。

山のように見える場所にも水子地蔵です。

 


小鹿野観光八景でもある地蔵寺は桜の頃に

小鹿野町観光協会が建てたものには、「水子地蔵寺」と書いていますね。小鹿野町の小鹿野観光八景に選定されています。

お寺の正式名称は、紫雲山地蔵寺となっていました。

立派な桜の木があるので、わかりにくいかもしれませんが、山のかなり上まで水子地蔵があります。

約1万4千体の地蔵だそうです。



「地蔵寺」と書いてある石碑とともに、桜の景色の中に無数のお地蔵様です。

お地蔵様もすごい数ですが、桜の多さも目立ちます。

まるで桃源郷というのか。桃源郷に行ったことありませんが。



比較的大きめのお地蔵様とこのお寺の開祖である橋本徹馬氏の碑です。

実際に来てみるとわかりますが、この見える範囲だけでなく、四方八方にお地蔵様が並んでいるので、圧倒されます。

なかなかの驚きですね。お盆の時期にはロウソクの光が印象的なのだそうです。

私は帰りに立ち寄ろうと思ったのですが、バスの時間が迫っていたので行きの時に手を合わせたくらいです。

お堂には入っていないのでどんなお寺だったのか、今度行ったら見てみたいと思っています。

後で調べたら水子供養の人だけでなく、立ち寄っている人も多いみたいだったので。

 


観音院の入口には仁王様がお出迎え

地蔵寺を後にしてしばらくすると、観音山トンネルがあり、そこを抜けて緩やかな坂を歩いていくと、巡礼の団体さんが見えてきました。ずっと舗装された道でした。以前はきっと土の道だったのでしょうが、きちんと舗装された道なのです。

やっと観音院に到着です。

観音院は岩峰の観音山の南側中腹にあります。大きな岩壁に覆われてた岩屋にあるお堂です。

観音山の反対側にある集落からは、この山を「タケヤマ」と読んで、神の山であると思われていたそうです。



仁王様の前には三十一番の石碑です。

たらちね観音の手前の橋をすぎた場所には「三十一番入口」の石碑でしたが、ここは「三十一番」となっています。

法雲寺と比べたら、「入口」と書いてある石碑から遠いですね。



手助け仁王の大きな手。

納経所にて仁王様の手形が売っています。1年間あなたをお助けしますとなっています。

手だから、手助け仁王なのかな。

仁王様は台座を含めて4メートルもあります。巨大な仁王様ですから手も大きいです。

石造りの仁王様では日本一なのですね。

この仁王様はここで取れた石で造られたそうです。裏手の山(観音山?)で取れた一本の石だそうです。



仁王門のそばには、足形が。

さて、ここから階段を登っていきます。

けっこう長い石段ですから、気合を入れないと。296段です。



歌碑や参拝記念の記念碑やら建っている石段を登ってきます。

まだまだです。



十二支霊場の石仏です。

守り本尊ですね。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の文字が赤字で書いてあるので、自分の干支を探しましょう。



廿四丁です。

どこから数えているのかわからなかったのですが(後で調べたら、三十一番入口の石碑のところから数えているそうです)。

ハナモモらしき濃いピンクが見えています。

お花を楽しむよりもこの石段がまだ終わらないことが頭を占めています。



坂東と書いてあるので、坂東三十三観音かと思ったら、秩父歌舞伎の先祖、坂東三十郎建立の碑だそうです。

手前にはよだれかけをかけたお地蔵様です。

しかし、まだまだ石段があります。



先程も落石注意の札がありましたが、平成13年8月に岩盤の崩落事故があったそうです。

「観音院も落石の崩落のおそれがありますので、頭上足下には十分ご注意下さい」の小鹿野町と観音院の注意書きです。

落石のことに気を取られましたが、観音院ルートと書かれた札です。西奥ノ院と札所31番観音院を示しています。

西奥ノ院はここから入る、なのでしょうが、今は立ち入ることができませんでした。崩落のおそれあり、です。

 


本堂と背後にせまる断崖絶壁が見えてきた

いずれにせよ、まずは本堂に、ということでさらに石段を登ります。

ここが廿五丁目ですね。三十一番入口の石碑には、二十五丁あると書いてあるのです。

後ろにそびえ立つ山、というか岩肌です。背後に断崖です。

確かに、落ちてきたら怖いですね。背後には落差25メートルの細い「清浄の滝」があります。

滝の水が見えています。



鷲窟山観音院の文字が見える鐘です。横に書いてあるのはお経なのか。

巡礼をするようになって覚えたこと。

鐘は最初につく、です。

鐘の撞き方が書いてありました。

鐘は来た時に心を込めて静かに撞く、なのです。

帰りに撞くのは縁起が悪いとされています。

死者を送る鐘を出鐘というそうで、出る時に鐘をつく、ということから縁起がよくないとされています。


西奥の院には現在行けない

落石注意が気になりますが、まずは弘法大師像です。石碑ではなく後ろの石像のようです。

慶應二年のもの。三重郎吉弥作。

滝の上洞窟石仏群もあるのですが、西の奥の院への道ではないと近寄れません。ロープがあって入れないようになっています。



これが弘法大師像なのかな。慶應二年の作。

このように岩の割れ目に石仏がいっぱいです。

 



断崖から見えるのは、滝です。落差25メートルと言われる細く水が落ちているのが聖浄の滝です。

宝篋印塔とともに写真に撮りました。

修験道の修験者の行場だったと言われる滝です。本堂が本山修験の道場だったと言われています。

これはやはり現場で自分の目で見ていただくのが一番です。

すごいです。

岩肌には、白く見える天狗の横顔のようなものがみえました。

岩肌に浮かび上がっているようにみえますね。自然のなせる技。



埼玉県の指定史跡です。磨崖仏、弘法大師爪彫の像十万八千佛です。

鷲窟磨崖仏として埼玉県の指定史跡になっています。

「この磨崖佛は、およろ三千万年前の海底に小石や砂が積もってできた礫質砂岩の岩肌を利用して刻まれてものである。岩肌の上方に「南無阿弥陀仏」と大きく刻み、高さ約十八センチメートルの座像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされている。地中にも数段の磨崖仏が残っており、俗に「十万八千仏」と言われている。風化磨滅が甚だしく、彫刻された年代を明確にできないが、室町時代ころの制作と推定されている。群像として刻まれた磨崖仏としては県内では他に例がなく、貴重なものである」

弘法大師となっていますが室町時代に造られたと推定されているのですね。



岩肌に彫り込まれた仏さまはよくわからなかったのですが(後で調べたら下のほうにうっすらとあったらしい)、岩の割れ目には石仏です。

岩肌のそばにはお地蔵様もいます。

その後、磨崖仏がもっとわかりやすい写真も撮りました。

 



こうやって誰が置いたのか。石とともに石仏が多く置かれています。

鎌倉時代、ここの一帯は丹党中村氏の領地だったそうです。

 


修験道で使われていた清浄の滝

滝の下は池になっていて鯉が泳いでいました。

守り神のようなお不動様の像もありました。

 



滝の水が落ちているのが見えますでしょうか。

ピンクの花のほうが目立ちますが。



もう少し引いて撮るとわかりやすいかな。

 



大宝篋印塔です。

こちらも慶應二年ですね。黒沢三重郎作。

背後のピンクの花はハナモモかな。



とにかく観音院の本堂にて、参拝です。

ここまでよく登ってきたと自分を褒めたいです。

昔の修験の道場だったお堂です。



本堂の隣には、大師堂がありました。

大師堂の後ろにも岩の割れ目に石仏です。



そのまた隣には、慈母観音です。

これもどことなく、この山の石を使っているような。

 



納経所前には高桑闌更の句碑です。

 


畠山重忠の家臣が矢を射抜く

いつもの奉納額絵が納経所前にありました。

本多次郎親常として書いてありました。

「親常の矢で落とせぬ夢のお告げにより鷲の巣にいわくある聖観世音の像がありました」

何かよくわかりませんね。「矢」がキーポイントでしょうね。


地層も忘れずに見学を

納経所にて御朱印をいただくと、裏手に行ってみることにしました。

まず、驚いたのがこの「新生代第3紀の地層」です。

約1,700万年前ですって。「花崗岩質砂岩と礫岩の互層、ノジュール(結核もある)」と書いてあります。

が、ノジュールって何?です。小さな塊の意味だそうです。

言われてみれば、そうですね。



西奥ノ院が行けないので、東奥ノ院に行きます。

ここも観音院ルートです。

 



しばらく登るといい景色です。本堂のあたりがよく見えました。

この写真一番上に、西の奥の院に行かないと見れないと言われた、石仏群が写っているのに、気が付きました。

なんと今になってです。

岩の隙間に、びっしりと柱のように見える石仏群です。

 



馬の蹄跡洞窟です。畠山重忠の愛馬を休めた伝説から来ています。石仏は37体あり。

そのそばには、山岳縦走コースの立て札です。少年男女と書いてあるから遠足に来るのかな。

馬の蹄跡洞窟は後回しにして、まずは東奥の院の見晴らし台へと行きます。



東奥の院の見晴らし台へ向かいます。大宝篋印塔、芭蕉の句碑、矢抜け穴遠望となっています。

ここに「矢」です。

この案内の下にも石仏です。

 



先程の奉納額絵の意味がここにあります。矢です。親常です。

矢抜け穴が遠くに見えます。現在地より約1km遠方に、です。

畠山重忠の家臣、本田親常(ここでは本多ではなく本田と書いてあります)が「矢を射通したという岩穴」が見えるのです。

親常も、近常と書いてあるのが多いみたいです。本多次郎親常なのか、本田次郎近常なのか。


矢抜け穴はわからず

何度みてもよくわかりませんでした。

どれが矢を射って穴ができたものなのか?



それよりも山の名前を知りました。大石山と観音山です。

ここにも石仏です。


東奥の院のお堂

あっという間に東奥の院に到着です。隣に大宝篋印塔です。こちらの宝篋印塔も古いのかな。

東奥の院は思ったより近かったです。

もっと奥まで行く、山登りコースかと思ってました。



東奥の院のところにも、ここから見えるよ、と言わんばかりの「矢抜け穴」の標識です。

畠山重忠の家臣はすごいのだ。

しかし、ここから見てもわかりません。



こちらはあまりにも大きな穴なので違うだろうな。

山の岩肌に穴がいくつか開いていました。



「清く聞かん耳に香たいて子規(ほととぎす)」芭蕉の句碑です。

香塚は、香をたくから来ているのでしょう。



東奥の院のところには、小さな祠もありました。

けっこう高いところぎりぎりにある祠です。



一周回りますので、今度は下りです。ここにも石仏です。これは弘法大師なのでしょうか。

ミニハイキングコースらしい道です。ここからは、岩場が多いです。かぶり岩と呼ばれている場所へ。



しばらく歩くと、岩の割れ目に石仏があるのが見えてきました。

ここの岩場も穴がボコボコです。

 



小さな祠もありました。

礫質砂岩といわれる岩だそうです。


馬の蹄跡と言われればそのようにも見えるが

全体像はこのような感じです。

そこに何やら立て札が。

 



これが馬の蹄跡です。

畠山重忠、駒繋ぎ場です。

ここにひづめの跡があります。

蹄といわれないとわかりません。




帰る時に気が付きました。降りていく直前の296段の石段のそばに少しだけ上にあがる場所があったのです。

そこには、観法法印即身仏墓。

即身仏です。明治十七年没、八十六歳。

秩父でも即身仏があったのですね。それも明治の時代に。



東奥の院を見てからぐるりと回って元来た道を帰りました。

行きには気付かなかったですが、仁王様に向かって左にも「三十一番入口」の石碑がありました。

こちらは、渋沢誠室書の石碑です。渋沢栄一のおじで、渋沢栄一に書を教えた人と言われています。

 



行きには気が付かなかったのですが、観音院の近くには「大竜寺現泉地」がありました。

大竜寺源泉スタンドというものがあると聞いたことありますが、ここはスタンドではなさそうです。

後で調べたら、三田川郵便局の近くにありました。国道沿いに温泉スタンドです。

 

大元の源泉地なのでしょうね。ここから温泉を引いて使っている宿がいくつかあるそうです。



栗尾のバス停に戻ってきたら、ここにも観音院入口の石碑があったのですね。

こちらには、「秩父霊場第三十一番、鷲窟山観音院入口」となっています。

この石碑のほうが行きの時に降りたバス停で、手前が帰りのバス停になります。ここから、もう少し歩くのですけどね。

後ろの畑には、常夜灯のようなものも置いてありました。