お寺の説明書きによると、神門寺は今宮坊に属していたお寺だそうです。

今回の神門寺は、夕方に行ったので、裏手にあると言われる回廊に入っていません。

今度機会があったら入ってみたいと思います。

国道のほうからも、「札所十八番納経所」の文字が見えます。


元は神社で榊が門に見えた神門寺

行ったのが夕方5時近いために、扉が閉まっていました。

神門寺ですが、神社とも縁起がつながっています。昔、ここは神社であって、大きい榊があって、その大きな木の枝が楼門のように見えたことから、神門と呼ばれるようになったとのことです。

年を経て木が枯れ神社が廃れて、再興しようとした村人たちが神楽を奉納すると、新たに作るのは寺にせよ、との巫女からのお告げあって、ここに観音様を安置してお寺にして霊場としたのだそうです。

安政5年、1858年に建立されたと言われる観音堂は秩父の名匠と名高い藤田若狭によって作られたと伝えられています。

見る人がみたら、違うのでしょうね。名匠との名高い藤田若狭が手掛けたという観音堂です。

一段高い場所にあります。

それから比べると他の不動堂などは地面の上に建っていました。

神門寺の御本尊は、聖観音菩薩で、両手に蓮の花を持っているという珍しい観音像です。

両手に花ですね。


あああ



観音堂に向かって、右手には観音様がいらっしゃいました。こちらは奉納されたようです。

国道に面したお寺ですので、まわりは住宅地になっています。

国道に面したこじんまりとした境内に観音堂のほか不動堂や蓮華堂も

 




お不動様も同じ境内にいます。

こじんまりとしていますが、観音堂のほかにも不動堂があります。




仏像九体が奉納されているという蓮華堂です。こちらは、比較的新しくみえました。



まわりをぐるっと写真を写してみました。

観音堂のすぐ左手に納経所があります。

その隣には休憩所となる場所もあるようでした。

 


観音堂の裏手にある回廊にはお手綱も

こちらの神門寺は、回廊があるお寺として知られています。

それなのに、行った時間が遅かったため(午後5時までなのに、4時半をすぎていた)、裏の回廊も閉まっていました。

裏の回廊から入ると、お手綱があって、まるで御開帳の時にように観音様と握手できたのに、です。

いつもの秩父の札所でよくみる絵が掲げられていました。

巫女の絵が描いてあるようです。元は神社だったというから巫女なのでしょう。



本当に惜しいことをしました。新型コロナでの緊急事態宣言の前だったので、まだ世の中ではアルコール消毒だとか、透明のベールを通じてとか無かった頃でした。

今となっては、どうでしょうか。コロナ騒動で、手綱を触れることができるのでしょうか。数多くの神社が拝殿前の、お賽銭箱の上にある鈴にぶら下がる麻縄や五色や紅白の布の綱さえ触れられないようにしている時代です。

御開帳があったお寺でも、手綱は巻き上げられている時代です。

とはいえ、秩父札所の御開帳の時期ではないので、聖観音菩薩のお姿は見ることができないのでしょうね。手綱に触れることができるだけかなと。それも今では可能なのかわかりません。

残念ですが、観音堂の左手にある「回廊の入口」だけ写真に撮っておきます。

神門寺に参拝に行ったら、ぜひともこの回廊を見学してください。

神門寺という、神社と縁が深いようなお寺の名前で、さらには榊の大木があったということ。

今もあればどうなっていたのでしょうね。


帰り道、駅に向かっていたら、史跡を見つけました。こういうのが歩き巡礼だと見つけるのですよね。

車での巡礼だと、霊場から霊場へと移動だけに終わりそうですが。

廣見寺の石経蔵だそうです。

史跡となっていまして、調べると埼玉県の指定史跡だとわかりました。

廣見寺の裏手に山があって、その山裾にある石をくり抜いて造った石室に数千個にも上る、川原石があるということです。

その石に大般若経が書いてあるのだそうで、お経を書くことで、民衆の救済を図ったとのこと。

飢饉の時にお寺の施米を貯蔵していたとの説もあるそうです。