この写真の上のほうに書いてあるように武蔵野三十三観音第31番霊場である法光寺です。法光寺は、関東百八地蔵尊の霊場(第11番)でもあるのですね。

30番福徳寺から長い長い道を歩きまして、やっと到着したのが31番法光寺です。

途中までは前回の記事に。

福徳寺は無住のお寺、興徳寺で御朱印を第30番、武蔵野三十三観音

いやはや、さすがにここまでは長かった。といいますが、これで一駅か!というのが正直なところです。

法光寺までの道すがら見てきたものについては、最後のほうに書きまして、まずは法光寺です。

カンカン照りの日だったので、さすがに法光寺についた頃には、だんだん喉が乾いてきました。途中で何度も水を飲みながら歩いてきたのですが、法光寺に到着してからも飲んでいたらほぼ飲み干してしまっていました。あと少ししか残っていません。

吾野駅で自動販売機を見ていたので、駅に戻ったら水かお茶を買おうと思いながらの参拝でした。

そのため、私は痛恨のミスを。

法光寺の奥の院に行くのを忘れてしまっていたのです。水のことが頭にあったからなのか。吾野の湧水には行っているのに、です。

ということで、今度、吾野駅に行ったら、奥の院の写真を撮って、追記したいと思っていますがいつになるやらです。

 

宮城県名取市の東禅寺の大梵鐘も置いてある法光寺

こちらは吾野駅のほうから歩いてきた時の写真です。

こちらでも紫陽花がきれい咲いていました。

紫陽花の写真を撮っていたら、遠くに梵鐘が見えました。

なぜこんなところに梵鐘が?それも「東禅寺大梵鐘」と書いた大きな字が見えます。



宮城県名取市閖上(ゆりあげ、と読むのだそうです)にある東禅寺の大梵鐘だそうです。

東禅寺は、東日本大震災で被害を受けました。檀家さんも多かったようなのですが、被害にあわれた方も多く、お墓も流されてしまったとのこと。

第一、本堂や庫裏まで大破です。東禅寺の住職夫妻はお亡くなりになりました。住職の息子さん(今の住職)はちょうど県外に出ていた時のことだったそうです。

平成23年10月より、ここ法光寺で預かっているそうです。ここの看板には復興まで預かっていると書いてありました。閖上地区は復興が遅れていたということが朝日新聞のネット記事に書いてありました。

立派な梵鐘ですが、縁あってここ埼玉県に来ています。


埼玉県指定史跡の観音窟石龕あり

吾野駅のほうからも歩いて法光寺にいけますし、国道のほうからも(ブログ冒頭の写真)法光寺に入れます。国道のほうからの道が表参道だと思います。

こちらが山門になりまして、仁王様ががっちりガードしています。

この仁王像は木造ではなく、石像のようでした。



山門に向かって左手には、六地蔵があります。

その前には、文化財を説明した柱です。

埼玉県指定史跡となっている観音窟石龕です。これが奥の院と言われている場所になるのでしょう。

しかし、私は行くのを忘れてしまっています。ここから500メールとなっていることから、奥の院でしょう。

そのほか、埼玉県指定有形文化財として、木造地蔵菩薩坐像が書いてありました。

この木造地蔵菩薩坐像があるからこそ、関東百八地蔵尊にも入っているお寺なのでしょうね。

法光寺のお寺としての本尊は、この地蔵菩薩坐像です。

武蔵野三十三観音としては、十一面観音像になります。


さて、山門向かって左手の仁王様の前には、いつもの御開帳の立札です。

法光寺は後で書きますが、吾野宿の先にあるお寺として知られていました。

吾野要害山城主、岡部新左衛門入道妙高が父祖の岡部六弥太忠澄(源平合戦で活躍した)の菩提寺として創建したと伝えられています。

さっそく山門から中へ入っていきます。


鐘撞堂の近くに裏手に抜けるトンネルの道あり

中に入ったらすぐに見えたのが、法光寺の梵鐘です。

東禅寺の梵鐘も見ましたが、こちらは法光寺のものです。



ふと山門を振り返ると、脇道のようなトンネルが見えました。

フジの花の棚の下になっていますが、どこかへ行けるのかなと思いました。最初、墓地への道かしらと思っていたのです。



あとで知ったのですが、湧水をいただきに線路を渡る時に、法光寺への道がつながっていることに気が付きました。

なんだここにつながっているのなら、ショートカットができたのに、と思いました。


観音殿が本堂前に

さて今回の目的である観音堂へ行きます。

本堂に向かって歩きますと、そのすぐ手前が観音堂です。本堂に向かって左側です。

赤い旗と回向柱がありますから、すぐにわかります。



ちなみに観音堂のほうから境内をみるとこのような配置になっています。

お手綱は巻き上げになっていなかったです。これで観音様と握手できます。

遠くに山がみえます。ここ吾野駅のまわりは山に囲まれ、ハイキングで来ている人たちに多く出会います。

 



観音堂というよりも観音殿ですね。こちらにも石柱が立っていて、武蔵野観音霊場と書いてあります。

もう一方には曹洞宗法光禅寺と書かれています。

花頭窓がありますが、二階をみると、どことなく普通の民家のようなたたずまいです。

 


本堂には埼玉県指定有形文化財の木造地蔵菩薩坐像

埼玉県の指定有形文化財にもなっている木造地蔵菩薩坐像がご本尊です。

延命地蔵菩薩になります。至徳三年(1386年)に開眼供養された地蔵菩薩坐像です。

飯能市のホームページによると、

像高40.8㎝、懸裳(かけも)22㎝、膝張り32.3㎝の寄木造りの坐像で、胎内銘から至徳3年(1386)に岡部新左衛門入道妙高によって開眼供養されたことがわかる貴重な仏像です。

本像は、実人的な面貌表現、複雑な衣文の処理、効率の良い木寄法などに、当時の完成された鎌倉彫刻の特色を見せています。この像のように袖と裾とを蓮華座の下まで垂らす姿のものは銘文から鎌倉の宅磨派工房に注文・造立されて当地に将来されたものと考えられ、年紀をもつ本像はその基準作としてもふさわしいものです。

中世の鎌倉と地方を結ぶ、活発な文物の交流を物語る文化財です。

袖と裾が蓮華座の下まで垂らしていることに特徴が現れているようですね。


本堂は、禅寺という雰囲気がします。

扉が少し開いていたので、お賽銭箱のところから堂内の中を見ましたが、厨子の中は扉が閉まっていて地蔵菩薩坐像は拝見できません。

秘仏として大切に保管しているのでしょう。



本堂に向かって右手に納経所があります。

いつもの小坊主が指し示しているのでわかります。

こちらで御朱印をいただきました。



境内には水子観音像もありました。十三重石塔もみえます。


法光寺の裏手には吾野湧水

先程の藤棚のところからも行けますが、私は一旦、山門から外に出て、西武線の線路の下を通って、法光寺の裏手に出てきました。

そちらに、法光寺の奥の院とも言われる岩殿観音窟石龕があります。

今見ると、「参道」となっていたのですね。埼玉県指定史跡です。

法光寺の奥の院は、この暑い日ではなく、秋になって行ってきましたので、別の記事に書いておきます。

向こうに見えるのが西武秩父線です。

私の頭の中は法光寺の奥の院よりも湧水のほうです。喉が乾いていますから。



矢印が指す方向には、天覚山と大高山です。

東吾野駅から登って、こちらの吾野駅で降りてくるハイキング(その逆コースも)コースになっているそうです。

それにしても「熊」に注意はよくみますね。さすがに駅に出てくることはないでしょうが(可能性無きにしもあらずですが)、山の中は十分に考えられます。熊よけの鈴など用意しておきたいですね。

岩のような奥に、「吾野湧水」と書かれた札がみえます。

線路のほうからくると、いったん、岩のような場所の裏手に回ることになります。

 



湧水が出ているところを写真に。

自然の水はいいですね。


線路下のトンネルを通ってからは、このような道を通って湧水のところへ行きます。

線路のほうからは見えない場所なので、「この場所でいいのかな」と少し不安に思うかもしれません。

上の写真の右手上部に石がごろごろ積み重なっているところが見えますが、その裏手に湧水があります。

裏手なので、気が付きにくいかもしれませんが、この写真の場所を上っていけばわかります。



こちらが吾野駅です。

先程矢印が示していた大高山や天覚山は、ここにみえる山々のことでしょう。

さてここからは、ここまでの道のり、法光寺までの歩いてきた道をご紹介します。


札所30番から高麗川沿いに歩いて法光寺へ

さて、ブログの冒頭でも書いた吾野駅までの道すがらの光景です。

前回の福徳寺から納経所がある興徳寺までの道から、吾野駅までの道を少し紹介しました。

そのブログ記事はこちら

福徳寺は無住のお寺、興徳寺で御朱印を第30番、武蔵野三十三観音

その続きになります。

吾野トンネル(東)のところでは、歩行者と自転車は車とは別の道に分かれます。

私のような歩行者がいるのかどうかわかりませんが、自転車はありえますね。

トンネルのところでは、車は直進してトンネルに入りますが、自転車と歩行者は別の道を通ります。



歩行者や自転車は、高麗川に沿って歩くことになります。

前回もところどころ、西武線の線路に近づくことになると書きましたが、ここでも線路に近くなります。



西武線の線路の下をくぐって歩きます。

再度、下をくぐることになります。

 



舗装された道ですが、道端には、このようなヒマワリが咲いていたりして、自然あふれる光景です。

これが札所の最初のほうとは見える光景が違うところですね。



ずっと高麗川に沿って歩いているのですが、その場所、その場所で川の様子が違って見えます。

大きな岩や大小様々な石もみえます。

途中で、けっこう大きな鳥が高麗川の上を飛んでいたのです。鷺かな。よくわかりませんが、私がスマホを取り出してもたもたしているうちに飛んでいってしまいました。

 



ここでは、再度線路の下を通ります。

道が蛇行しているのです。

この赤い橋の下を通り抜けると、吾野宿の通りになっていました。埼玉県の宿場町として歴史散歩など行われているそうです。

ここまで来ると、駅前通りの様相です。



埼玉県の歴史のみち景観モデル地区となっています。

旧街道や旧宿場町にある歴史的景観資源を保全活用するプロジェクトが進んでいるそうです。

江戸時代の秩父往還道の宿場町が吾野宿です。

馬継ぎの宿として栄えていたとのことでした。

カフェギャラリー吾野宿(大河原家)のほか、石田家、浅見家などが埼玉県景観重要建造物に指定されています。

8月には吾野宿まつりも行われているそうですよ。



吾野宿は昭和の初め頃まで、西川材の取引や秩父の絹の取引などで賑わっていたそうです。

江戸時代は、秩父札所めぐりや秩父三山へ行く人たちの宿場町です。

さて、もう少し吾野駅に向かって歩いていくと、弁天島が見えてきました。

高麗川の真ん中に巨大な岩があって、そこに弁天様がお祀りされています。

弁天様と川や湖、池など水は欠かせません。

高麗川のど真ん中です。

 



岩場の弁天様の説明です。吾野弁財天崇敬会が書いていました。

橋のところにありました。

「この川の中に神の宿る岩がある。岩の上には松が茂り弁天様が祀られています。

弁財天の名は聖なる川の意味からという。川を治め豊かな大地を作ることや川の流れのようにリズム、音楽、弁舌の上達を司る女神として祟られている」

埼玉県と地元の協力で橋がかけられたようですね。

「弁財天の福徳、利益により、橋を渡る人びとの御多幸を祈念するものである」と書いてありました。



もうしばらく吾野宿の通りを歩きますと、駅へつながる階段が見えてきます。

ここを登っていきますと、吾野駅にゴールです。

最後のふんばりがこの階段と言っていいでしょう。



こちらが吾野駅の駅前になります。

私が歩いて来た道の方向を指しているのが、顔振峠の方向です。

関東ふれあいの道となっています。顔振峠や黒岩三滝(7キロ先)がある方向になります。

私は車で黒岩三滝に行ったことがありますが、越生の町というイメージでした。

こちらの飯能市からも行けるのですね。

反対側に矢印が向いている方向には、「子の権現」です。もう一つの立札には、「子の権現・竹寺」となっています。

子の権現天龍寺も、竹寺も、武蔵野三十三観音の札所です。

次回は子の権現へと行くことになります。

登山ポストや登山届けなどが見えるように、ハイキング、登山の人が多く利用する駅です。

子の権現も竹寺も歩きで行くとなると、ハイキングという名の山登りです。



吾野駅には、御嶽山秩父御嶽神社の石碑が立っていました。

秩父御嶽神社は、吾野駅と西吾野駅の真ん中にあります。

吾野駅と西吾野駅の間も、同様に一駅間とはいえ、けっこうな距離があります。

秩父御嶽神社は本殿までの階段がすごくてほぼ山登りになるようですね。

余談をひとつ。


西武線ですが、この西武秩父駅までの間は一駅間が長いからなのか、1本乗り過ごすと次まで待たないといけないからなのか、特急だけでなく各駅停車の列車にもトイレがついていました。

一番端の車両についています。

写真の上のほうをみていただくとわかるように、トイレのマークがついています。