バスツアーメインの坂東33観音札所巡りですが、今回は個人で行ってきました。

 

阪急交通社の坂東33観音のバスツアーについてはこちらの記事をどうぞ

どのようなバスだったか、お弁当などの写真もあります(参加者にいただける巡礼セットについても)。

>>杉本寺は坂東33観音札所第1番(阪急交通社のバスツアー体験してみた)

>>金目観音で知られる光明寺(金目山)へ阪急交通社のバスツアーで

 

さて、今回は、さいたま市岩槻区の慈恩寺です。

慈恩寺観音として知られます。また、古くからあるお寺だからか、地名にもなっているのですよ。

慈恩寺の住所は、さいたま市岩槻区慈恩寺139です。華林山 最上院 慈恩寺です。

この山門は、なんと何度も火災の危機にあったのに、焼け残ったと言われます。

だから都内のお寺は戦災で焼失したということがかなりの割合で見られますが、この慈恩寺の山門は、元禄4年、1691年建立としてずっと慈恩寺の山門として立っていたわけです。

 

三蔵法師(西遊記)ゆかりのお寺

唐の都、長安にある大慈恩寺の風景に似ているからとこの地を慈恩寺と名付けたといいます。
開山は慈覚大師で、みずから長安で学んでいたのです。

その長安の大慈恩寺は西遊記のモデルといわれる玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った仏典を漢訳していた寺院として知られます。

慈恩寺に来る人は、歩いて10分くらいでしょうか。

別の場所にある玄奘三蔵法師の遺骨の一部が安置されているといわれる十三塔にも行くようです。

十三塔のことはまた、後ほど。

まずは慈恩寺の紹介です。


慈恩寺は広いので、いくつか入ることができる門があるのですが、おそらく表参道となる門から入ってみました。

入るとすぐに「雷神塚」がありました。

そのすぐそばには、藤棚がありました。

きっと5月くらいにはきれいなお花が見られることでしょう。

桜の花もありそうですが、私が行ったのは、2月だったので残念ながら、花と呼べるものはまったく見当たりません。

イチョウの木でさえ、秋ならば黄色い葉っぱが見えたことでしょう。

お経を唱えることだけが目的ならいいのですが、お寺めぐりも時期を選ぶ必要があるかもしれませんね。


もうひとつの入口から近いのが鐘楼です。

手水舎もこちらにありました。

おそらく手前に写っている枝は、桜の木の枝ではないかなと思いました。


大本堂は天保14年に再建、昭和12年に改修

南無観世音菩薩の文字が見える白い旗、赤い旗がみえます。

手前の石碑には鎮護国家の文字が見えます。

大本堂と呼ばれるくらいかなり大きな本堂です。

私が今まで坂東33観音巡りをしてきた中でも大きい方に入ります(こじんまりとして本堂も多い坂東33観音の札所です)。

天保14年に再建して、昭和12年に改修して、さらに2017年に屋根を大改修したといわれる入棟造りの大本堂です。

確かに中に入りますと、建物自体は古いことがすぐにわかりますが、それに比べたら屋根は新しいですね。



お寺にかかっている額には、瑞雲という文字、慈恩教寺、そして、慈航普渡の文字が見えます。

慈航普渡は、中国では、仏や菩薩は苦海を渡り、それゆえに慈悲の心で衆生を救ってくださるということです。

生死の海を出て、船でそのような海を渡る。

慈航普渡は、観世音菩薩が慈悲の心で、人々を導き、みなが生死苦海を渡れるように、極楽の彼岸へたどり着けるようにということです。慈航とか、慈舟とも言われるそうです。

この世は苦しみがあっても、その海を渡れば、あの世では極楽だよということでしょうかね。

 


ご本尊は千手観音で夫婦円満を祈る観音様

本堂の中は、写真を撮ることができません。おそらくどの坂東33観音でも同じでしょう。

 

大黒さまがお祀りされている祠のようなところなのですが、千社札がものすごいですね。

自分が来たことの証でしょうか。

それは、お賓頭盧さまの近くにあった柱も同様でした。

紙の千社札だけでなく、木札が打ち付けられていますね。

おびんずるさまの近くには、小さな観音様の像がありました。

江戸時代に天海大僧正が納めたといわれる千手観音がご本尊です。

その前には、開山の慈覚大師が大杉の大木を彫刻して納めたとの記載があるそうなのですが、その後、焼失してしまい、江戸時代の天海大僧正が納めたものがご本尊になっています。

しかし、拝観できません。そのかわり、御前立の千手観音は拝見にすることができます。



ふるびた鉄の燈籠と、大仏さまが見えます。

岩槻城主北条氏房の家臣であった伊達与兵衛によって寄進された南蛮鉄燈籠です。

この南蛮鉄燈籠は、天正17年(1589年)に寄進されたというもので、さいたま市の指定文化財になっています。かなり古いことはわかりますね。

慈恩寺は最も広かった時代は、13万坪の敷地があったそうですが、何度も火災などあって、現在に至るわけです。

元禄4年(1691年)の山門が古いほうに入るのでしょう。

大本堂も天保(1843年)の再建で、それを改修したと言われますから。

 


鐘楼の真正面にある納経所

納経所は境内の鐘楼の真正面にあります。

こちらで御朱印をいただきます。

鐘楼のそばのイチョウの木の前にも本堂のような建物があります。

慈恩寺は、全盛期の頃は、66ヶ坊を持つほどの大寺院でしたから、こちらもその一つだったのかもしれません。

もう一つの入口近く鐘楼の下のほうに玄奘塔の案内図がありました。

玄奘塔まで地図を見ながらいってみた

わからなくなるといけないので、この案内図を写真に撮っていってみることにしました。

「四季のうつろいにひたれる静かな聖地に三蔵法師の霊骨が奉安されております。是非御参詣ください」と書かれてました。

行事のところには、玄奘忌として、2月5日、11時より行われることが書いてありました。

玄奘三蔵法師の命日なのですね。

玄奘祭もあるそうで、5月5日のこどもの日ですね。こちらも11時からとのことでした。

それに徒歩で行くとかなりショートカットできそうな道だったのでいってみることに。

近道となる看板がお寺の前にありました。

この「参道」と書かれている看板を見過ごすことのないようにしてください。
でないと、きっと遠回りします。

私は、こちらの道を歩いて行きました。

途中、工事中のところもありましたが、その工事中のおかげで、道を囲ってくれていたので本来ならわかりにくい道なのでしょうが、すぐに道にそって行くことができました。

畑の真ん中を通って小高い丘をめざします。

一見するとどこを歩いているのかわからないように見えますが、遠くからでも玄奘塔が見えるので、ある程度、近くなったらわかります。

そちらを目指してひたすら歩きます。

 

丘を越えて玄奘三蔵法師の十三重の塔へ

丘のところは、森のようになっていますが、十三重塔が高いので(それに畑の中にぽつんと立っているので)わかりやすいです。

徒歩の人は、十三重の塔の裏手から入ります。しかし、まわりに鉄柵がありますからすぐに近寄るわけにはいきませんね。

車の人は、表から入ることになります。

玄奘塔の近くには、このような建物もありました。倭杖林という文字が見えます。

一体何の建物なのでしょうね。
宝珠はありましたが。

お祭りや玄奘三蔵の命日の行事の時に使われるのかもしれません。

10分ほど歩いたでしょうか、到着です。

玄奘三蔵霊骨塔でもお参りできる

マニ車とか、玄奘三蔵法師の銅像もみえます。

玄奘三蔵霊骨塔です。

その前には、ロウソクを建てる場所もあります。

 



だれが置いてくださるのか、お花もいけてありました。

木札には、玄奘塔と書かれています。

ただし、鉄柵があるので、近くまで入るとか、霊塔を触るとかはできません。

立ち入り禁止となっています。玄奘忌の日なら、もう少し中に入れるのかしら。

 



お線香を建てる場所もありましたし、鐘もありました。

本来なら、鐘を先に鳴らしてから参拝でしょうね。

こちらにも参拝する人は絶えず。



私が行った時期が冬の寒い2月だったので、慈恩寺のところではイチョウの木は落葉していましたし、桜はまだですし、もちろん、藤棚も木や枝しかみることができませんでした。

しかし、玄奘塔の案内図にあったように「四季のうつろいにひたれる静かな聖地」と言われるだけあって、こちらには、梅の花がきれいに咲いていましたよ。

やっと花を見ることができました。



写真だと、桜のように見えますが、すべて白梅です。

唐の都、長安に行ったような気分になれる門です。

玄奘三蔵法師が故郷を思って、寂しくないように、でしょうか。

玄奘三蔵霊骨塔の説明です。



「西遊記(孫悟空物語)で知られる三蔵法師(玄奘)は、西暦602年中国に生まれ、経典を求めて、天竺(インド)を志し幾多の辛苦を克服して、17年に亘って仏典の蒐集研鑽に励み、しかも帰国後に63才で遷化されるまでに大般若経(600巻)等、千三百余巻の経典を訳した」

と書いてありました。このおかげで、私も含め皆さんがお経を唱え、写経もできるということです。

「ながく不明であった霊骨が昭和十七年に南京に於いて発見され、日本にも分骨贈与されて当山が法師有縁の地として、昭和二十五年、十三重の塔を建立し全佛教徒の聖地とすべく奉安したものである」

ということで、戦争中に霊骨が見つかり、戦後まもなくの頃に霊骨塔ができたのですね。

大慈恩寺との縁があったからなのか。日本でも長く人気の西遊記で知られる三蔵法師。

その霊骨の一部がさいたま市にあったということなのです。日本と中国は戦争で戦いましたが、平和な時代になってから分骨贈与されるという、このような交流が続いていたわけです。