歩き巡礼とはいえ、毎回、区切りをつけながら歩いています。
今回は、この狭山市の慈眼寺からスタートです。
(よくよく考えたら、17番の徳林寺から先に行っていました)
ところどころ札所の順番にならないのですが、歩きやすい順番で歩いているつもりです。
昔の人なら、どこかに泊まりながら歩き続けたのでしょうが、私は区切りをつけて、一旦家に戻り、また都合のいい日にまわるようにしています。
ここ慈眼寺は名前は知っていました。
なぜなら、はじめて武蔵野三十三観音のリーフレットを見た時、こちらの慈眼寺で記念の講演を行うなどイベントを行う、と書いてあったからです。
それも4月から今のような状況になるとは夢にも思っていなかった時期に予定を建てていたのでしょう。
そこには、「記念法要・清興(津軽三味線)5月1日午後1時より」
「総開帳記念イベント 5月2日~3日 午前10時から午後4時 御影(おすがた)・出開帳(でかいちょう)・写仏・写経・坐禅等の指導」と書いてありました。
会場は札所16番となっていたのです。すべて中止になってしまいました。
返す返すも残念です。
航空自衛隊入間基地に近い慈眼寺
慈眼寺には、車で来る人が多いのか、駐車場側からも道路があります。
もちろん、参道も山門に続いています。
ゆるやかな坂を登っていくイメージです。
表参道のほうは、おそらく桜並木になっているようです。残念ながら桜の季節ではないので、確認できませんが、御開帳のスタートの頃は、少しは見ることができたのかもしれませんね。
狭山市のホームページにも慈眼寺は紹介されていました。
それなので、予めざっくりと慈眼寺について学ぶことができます。
当寺の草創は正長元年(1428年)に草庵が結ばれ、後の大永年間(1521年~1528年)に一樹和尚によって開山されたと伝えられています。
やはり武蔵野三十三観音の霊場のことも書いてありました。なんと、観音様の前は、阿弥陀如来の立像だったのですね。今は、聖観世音菩薩が御本尊です。
武蔵野三十三観音霊場の第十六番観音を本尊としていますが、以前は阿弥陀如来の立像でした。記録によりますと、慶安2年(1649年)に阿弥陀堂領十石の朱印を与えられています。また、寺宝の阿弥陀如来立像は、市指定文化財です。
こちらにも書いてありますが、以前の御本尊だった阿弥陀如来立像は、狭山市の指定文化財になっています。
愛とは忘れることなり
山門の脇に立つ金剛力士像もいいですし、その手前にある六地蔵もいいのですが、お寺の前に貼ってあった言葉が良かったです。
愛とは忘れることなり、です。
ついついおせっかいを焼いたり、あなたのことを思ってとか言いまして、愛情を押し付けることがありますが、一旦忘れる、それもまた愛なのです。
忘れるくらいで調度いいのでしょうね。
最近は、子どもへの愛情と言いながら過干渉ということもありますし、愛のためにストーカーまがいのことをして相手に迷惑かける人もいます。
過ぎたるは及ばざるが如しですね。
かえって「忘れる」くらいの気持ちでいたほうがいいことのほうが多いかもしれません。
話が飛んでしまいましたが、こうやってみると、六地蔵はかなり新しい感じがします。
最近造られたのか、再度作ったのか。
慈眼寺はお寺の建物に入れると聞いていましたが
六地蔵の新しさに比べると、山門は重厚で味わいがあり、歴史を感じます。この柱の上にある獅子の彫刻もなかなかいいですよね。
その下の木札には「曹洞宗慈眼寺」とうっすら書かれていました。
山門から入ってまっすぐ前が本堂になります。そちらに聖観音菩薩様がいらっしゃるようですね。
こちらの慈眼寺は、本堂に入ってお参りできると聞いていたのですが、私が行った時はそれが叶わず。
しかし、いずれまた再開してくれるお寺さんのように感じました。
あれもダメ、これもダメというお寺さんとは違うタイプに感じたのです。人に開かれたお寺さんという意味です。
無量寿閣と書かれた額のあるお堂と、鐘撞堂です。
こちらのお堂には、以前の御本尊である阿弥陀如来像がお祀りされているそうです。
慈眼寺は、こざっぱりとして清潔なお寺ですね。
鐘の突き方と唱える「鳴鐘偈」
すべてに言えることですが、何事も粗雑に扱ってはいけませんね。
たとえ、一打といえ、心を込めてつくことが大事です。
「まず合掌。心しずかに願いを念じつく つき終わって合掌」
そして、鐘をつくときのお唱えまでも!
「三途八難 息苦停酸 法界衆生 聞声悟道」
「鳴鐘偈」です。
曹洞宗で唱えられているそうですよ。鐘をつく時にお経を唱えるのは私的には、永平寺って感じがします。
驚くのが、回向柱です。四本組ですよ。
これなら、いっぱい書くことができます。そして太いです。
記念総開帳の早朝に建てられたのでしょう。
「妙智山」の額に下にお手綱がつながっているのがみえます。
欄間の彫刻の間を通っていますね。
本来ならもっと盛大な御開帳になったのに、残念です。
「黒くなったお地蔵様」も見ていなかった
香炉もきれいになっていて、この御開帳のために新しくしたのでは?と思うほどです。
慈眼寺では、いつもなら観音様にお会いできるそうなのですが、他にも見逃したものがあります。「黒くなったお地蔵様」です。
慈眼寺の裏手にはかなり広い墓地があります。
その途中にある祠のような場所に「黒くなったお地蔵様」があるらしいのです。
しかし、残念ながら見ていません。家に帰ってからグーグルマップで見ていたら、場所がわかりました。
墓地へ行く人ならわかる場所です。
お寺の参道とは別に、裏の墓地へ行く人のための道路があって、そちらの途中にありました。
白い祠の中にお地蔵様がいくつか立っていました。
狭山市のサイトにもそのお地蔵様のことが書いてありました。
地蔵菩薩は丸彫りの立像で、入間川1丁目の慈眼寺裏手のお墓への道の途中にあるのお堂の中にあり、元禄15年(1702)11月に同寺の檀家の人々により建てられたものです。
お地蔵様の台座などに、行き先を書いた道しるべになっているのは、見たことがあります。
慈眼寺の裏手のお地蔵様も同様でした。
台座右側に「右藤■■」、右後には「左江戸道」と刻まれているところから、道しるべも兼ねていたと考えられます。
尊像の両側面に、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」と法華経の偈げ(仏を称える言葉を詩の形に整えたもの)が刻まれています。また、この地蔵は俗に「黒くなったお地蔵さん」とも呼ばれています。
お地蔵様に刻まれているという文、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」は、回向文ですね。
旅行会社の札所めぐりでは、「願わくば、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし 我らと衆生と 皆共に仏道を成せん」と読み下し文で唱えましょうといわれる時もありますし、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつだう)と読む場合とがあります。
仏を称える言葉と書かれていましたが、私はお経の功徳が他の人にも及びますように、という解釈をしていました。
こちらの黒くなったお地蔵様は、イボ取り地蔵とも言われているそうです。
なぜ黒くなったかというと、お線香やらロウソクやらの煙があっていつの間にか黒くなったのだそうです。
それほど信仰されていた、ということです。なんでもこの近くに遊郭があってそこの女性が熱心に信仰していたのだと聞きました。
前にも書いたことがありますが、所沢や狭山には宿場町があって、人の往来もあったのですね。
秩父と江戸をつなぐ街道だったのでしょう。
慈眼寺には、機会があれば観音様とこのお地蔵様を見に行きたいなと思っています。
慈眼寺へ行く途中には八幡神社も見学を
17番の徳林寺と16番の慈眼寺は一緒に行く人が多いと思いますが、特に歩き巡礼の人は、おそらく途中で八幡神社に立ち寄るかもしれないと思って、追加しました。
徳林寺と慈眼寺の真ん中にあるのが八幡神社です。
こちらの八幡神社も狭山市では有名な神社です。元弘3年に新田義貞が戦勝を祈願した場所であると伝えられています。
新田義貞ゆかりの「駒つなぎの松」という松の木も有名なのだそうですが、なにより驚きがこの社殿、八幡神社の本殿です。
「さわりの壺」というのも説明文がありました。
ここの説明文には、「さわり」と書かれいますが、狭山市のホームページによると「さはり(砂波利)の壷」なのだそうです。
「大正12年(1923)に八幡神社が拝殿を造営するにあたって本殿を現在地に移転した際、神門の下から発見された」ものだそうです。
そのときはすぐに埋め戻しましたが、昭和28年(1953)に『入間川町誌』を編さんするにあたり再発掘し、現在に至っています
祟りがあると思われたのか、すぐに埋め戻したのも驚きですが、再発掘したのですね。
砂波利とは、銅に錫すずと鉛なまりを加えた合金で黄白色をしており、たたくとよい音がするので「響銅」と書いて「さはり」と読ませることもあります。
この合金で造られたのが「さはりの壷」で、発見時に壷の中から少量の籾粒と金銀の箔片が見つかったため、本殿造営にあたり地鎮の目的で埋納されたものと考えられています。
高さ18.7センチメートル、最大径10センチメートル、口径7センチメートルのこの壷は、室町時代の作と考えられていますが、一説によると南北朝時代の文和2年(1353)から康安2年(1362)年にかけて入間川に滞陣した、鎌倉公方・足利基氏と関連があるのではともいわれています。
説明文に「さはりの壺」の写真が付いているのでなんとなく感じはつかめます。
地鎮祭に使ったのでしょうか。室町時代のものというのですからその当時から地鎮のための儀式は行われていたのですね。
八幡神社は旧入間川村の総鎮守となっています。ただ、何度か火災になったため、古記録を失いその創建年月が不明なのだそうです。
八幡神社に残っている『八幡神社縁起』によると、先ほども書きましたが、「元弘3年(1333)5月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるため当地へ兵を進めた際、戦勝祈願に参拝した」とあるそうです。
本殿は享和2年(1802)に建立された唐破風向拝付、千鳥破風付入母屋造りの建物で、周囲には彫刻が施されています。この彫刻が見事なのです。
精巧な彫刻が見事です。
狭山市の指定文化財になるのも納得です。
狭山市のホームページによると、
透かし彫りと浮き彫りの両技法を巧みに使い分け、「琴棋書画の図」を七福神などで表現したこの彫刻は市内屈指といわれ、作者は上野国(群馬県)の鏑木半二邦高(かぶらぎはんじくにたか)であることが墨書銘からわかっています。ちなみに、「琴棋書画」とは中国の貴人の間で余技として好まれた琴・棋(囲碁・将棋)・書画のことです。
祭神は応神天皇とあり、「慶安2年(1649)10月には江戸幕府から5石1斗余の朱印地を賜っている」という神社です。