秩父札所めぐりをして初日だと思うのですが、秩父札所連合会が出している緑色の地図をいただきました。

秩父の札所のお寺を一覧できる地図です。それをみていると、今ある道路だけでなく、「巡礼道」という道が点線で書かれています。

私は主に歩き巡礼でしたので、その巡礼道(途中で何度も札を目にすると思います)を使って歩いてきました。

今回の札所22番は、21番の観音寺からどうやって歩いていけばいいのかと巡礼道を予め調べていました。

そうしたら、21番から22番への道には、江戸古道だけでなく、明治古道というものもあることがわかりました。

童子堂は、上記の跡地にある写真をみてもわかるように、移転を重ねているのですね。


童子堂跡地にも行ってみた

こちらが童子堂跡地のある山道のところです。

グーグルマップで調べて行ってみました。車1台が通れるかという細い道です。

途中までは車も通れていましたので、駐車している車もありました。

22番童子堂跡地にあった看板によると、

「ここより北へ百メートルほどの府坂地内に童子堂が建立されていたが、江戸元禄十五年(1702)に現在の童子堂がここに建立された。

以来、二百年もの長い間、この霊地に建っていた童子堂は明治末期になると、巡礼に便の良い現在の二十二番の地に移された。

この跡地には奥の院の跡や礎石が残り、昔を偲ばせている」

と書いてありました。

府坂地内→→看板がたっている「ここ」→→現在の童子堂のある場所

の3ヶ所をめぐって、今の童子堂の場所に落ち着いたようなのです。

秩父札所は、室町時代には定まっていたといわれていますから、室町時代の頃にあった場所から江戸時代(元禄15年から明治)にあった場所に移り、そしてさらに今の場所へと移されたということです。

しかし、跡地と看板がある場所の今は(特に行った頃は)草が回りに生い茂っていて、どれが奥の院だか、どれが礎石なのだかわかりませんでした。

そのため、北と思う方面に歩いてみました。


22番から23番へは江戸古道と明治古道がある

確かに、坂道でしたが、これが府坂という地なのかもわからないまま。

途中に神社らしき祠と鳥居がありました。

秩父に昔から住んでいる人なら、府坂という地名でわかるのかもしれません。結局、わからないままで終わりにしました。

調べてみると、府坂峠という場所にあったとか、書いてあるものもありまして、一体どこなのかわかりません。

写真の「跡地」という場所には、元禄15年から明治43年まで童子堂があったようです。

そのために、江戸時代の巡礼の道と、明治時代の巡礼道が違っているようです。

明治古道は、畑のある平地を歩いて札所22番に行くのですが、途中で山へ登る、かなりの坂道を登って、雑木林の長い尾根を歩きます。

途中で、江戸古道と合流する形です。

23番の音楽寺へ行ったことのある人ならわかるのですが、十三賢者のお地蔵様がある場所近くで合流です。

江戸古道を使う人は、雑木林の中を歩いて、21番から23番へ行くことになり、22番の童子堂は後から行くことになります。

明治古道なら、ここの童子堂跡地には行かないで、22番に行きまして、そこから少し歩いて山へと坂道を登って、江戸古道に合流ということです。

 



ちなみに、何度も山へ向かって、と書いていますが、高いそびえ立つような山ではなくて、この写真の場所がそれなのです。

しかし、坂道を使うと、けっこう急な坂道でハアハア言いながら登るみたいです。

 

明治古道から札所22番へ

秩父の札所めぐりをしていると何度も見かける、案内板です。

これをみるとわかるように、「明治巡礼古道」となっています。

それまでは「江戸」ばかり見かけていたのに、ここでは「明治」なのです。


雨が降ったり止んだりしていた時だったので、道が濡れてぬかるみになっていそうな道になっていますが、歩く場所はわかりました。


「明治巡礼古道」を通って、22番の童子堂へと歩きます。

畑の中の道から、一度自動車道路へ出ます。


自動車道路までは、このような畑の中の道です。

のどかな風景が広がります。


ここで、いったん、自動車道路へ出ます。

「明治巡礼古道」となっているのがわかるかと思います。

 



車がどんどん通る道の脇を歩いていると、「二十二番入り口」の石碑が見えてきました。

すぐに、お地蔵様の姿も見えまして、ここを曲がって入っていくのだなとわかります。

ちなみに車で来た人は、ここに駐車しているようでした。



参拝後に、もう一度、お地蔵様の写真を撮った時のものです。

この時はすでに駐車場はあいていました。



のどかな風景の中に童子堂はありました。

茅葺き屋根の山門(仁王門)というのも珍しいですね。



サルスベリの花がきれいな時期でした。

お寺の説明書きには、童子堂の仁王様の写真がありました。子どものような顔の仁王様です。

いつもは怖そうな仁王様が多いのに、愛嬌のある顔の仁王様です。

ここは童子堂といつも呼んでいたのですが、本来は華台山、永福寺なのですね。

 


札所入り口にお地蔵様で茅葺きの仁王門前には六地蔵

茅葺きの仁王門です。うっすらと仁王様がわかるかと思います。

その手前には、六地蔵がありました。



こちらがその愛嬌のあるお顔の仁王様です。

子どものような顔ですが、仁王様です。阿形の仁王様。

 



こちらは、吽形の仁王様です。

いつもは仁王様というと怒られそうな顔のものばかり見ていますが、童子堂の仁王様は子どもの顔みたいですよね。

印象はだいぶ違います。



仁王門を入って参道を歩くと、敷地が広がり、観音堂があることがわかりました。



山門(仁王門)からは、裏側になっているようで、歩いていると、お不動様の姿も見えました。

大聖不動明王像です。



観音堂の入り口のほうへ行こうとしたら、またもや、お地蔵様を見つけました。

身代わり地蔵尊、とげぬき地蔵尊です。

それ以外にも石仏がありました。

 



やっと観音堂の入り口がみつかりました。

こちらで参拝です。


観音堂ではなく、「童子堂」と書いた額がありました。

こちらに移ってきたのは、明治43年以降となりますが、千社札もありますし、建物もけっこう古びています。

童子堂というのは、山門の仁王様が子どもみたいなお顔だからということもあるでしょうが、天然痘が流行した時、ここで清水を祀って薬にしたら病が治って、子どもの病気を治すとして、子どもを守る観音様として知られていたからというのも理由のひとつのようでした。

 



木造の建物がかなり古びているのですが、移築したのであって、立て直しをしたわけではないのかもしれませんね。

壁には奉納板がありました。同行三百三十三人というすごい数です。午年の開扉の時なのでしょう。

「百観音霊場為現当二世安楽」と書いてあります。

 


けちで欲張りなことを戒める奉納絵

こちらは、秩父札所でいつも見かける霊験記の奉納額です。

いつも絵ですね。

犬が着物を着ている、と思ったら、童子堂の縁起からくるものでした。「讃岐人化犬」という文字が見えます。

昔豪農が行脚僧に施しをしないで、罵ったそうです。そうしたら、その家の息子が犬になってしまったのだとか。

犬になった息子を連れて百観音めぐりをしたら、こちらの童子堂で、犬が子どもに戻ったという縁起から、この絵になっているようでした。



童子堂の脇にあった祠です。

何をお祀りしているのでしょう?

小さな扉が3つありました。




観音堂(童子堂)の真後ろに本堂がありました。

こちらは、童子堂と比べたら新築のような感じがします。

きれいな本堂で、建って間もないのかもしれませんね。

 



本堂からみると、このような配置です。

本堂から見えるのは、縁起を描いた奉納額のある側です。

童子堂は、敷地が広々としています。

童子堂は童子仁王が有名だから

仁王様の御姿が気に入った人は、本堂の中で、このような仁王様をプリントした手ぬぐいが売っていますので、記念にいかがでしょう。

写経は、観音堂のほうではなく、こちらの本堂で受付していました。

納経をすませました。





昭和40年に書かかれた説明書きです。

こちらではなぜか、華台山ではなく、「西陽山」永福寺となっていました。

「この堂は童子堂と称し、府坂地内より現在の地、永田城跡に移したと伝えられ近くに城の堀跡が現存しています」

「山門の仁王門は、童子仁王と云い稚拙であるが愛嬌のあるもので童子の名にふさわしい仁王門です」

仁王様自体が、童子仁王というのですね。

それとお堂が造られた由来もありました。

「この堂は淳和天皇御弟三品式部卿、伊豫親王の菩提のため、遍照僧正がこの領主に命じて草創したと云われています」

奉納額絵に描かれていた縁起についても載っていました。

「昔、讃岐に慳貪な長者があって、行脚の僧長者に食を乞えども与えられず、僧は金を払いて米を求め犬に与えればこの家の伜、犬となり共に喰いる様に親は驚き悲しみ大きく長老は僧に因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国の霊場を廻り当山に来て始めて元の人間になったと云う縁起があります」

けちで欲張りは、このようなことになるという昔ばなしみたいな結果ですね。

 


以下は、巡礼道の話に戻ります。


再度、明治巡礼古道へと

童子堂の付近の巡礼道です。「二十二番入口」と書いてある石があります。



巡礼みちは、時にこのようなお墓の近くも通ることがあります。

こちらは、明治巡礼古道になるのでしょう。

22番から23番への巡礼道です。



巡礼道の札と近くあったお地蔵様です。

高いところに置いてあるお地蔵様ですね。

このように歩き巡礼だといろんなものを見ながら歩くことになります。

これが車だと通りすごしてしまいますよね。



いったん、自動車道に出るのですが、また、巡礼道の小道に入ります。

それが「巡礼みちハイキングコース」となっていました。

これが明治巡礼古道と思う道です。

ちなみに冒頭でも書いたように、江戸巡礼古道は、童子堂の場所があのような山の中にありましたので、そのまま山の雑木林のところを通って、23番の音楽寺に向かうようです。

しかし、明治巡礼古道はこちらからとなります。



私も一回通り過ぎてしまったので、念の為、このような場所で自動車道路から入っていきます。



いったん、自動車道に出ますが、ここを曲がると細い道になるので、車の通り抜けはできないです。

ですので、車で来た人は、この200メートル先の秩父公園入り口(ミューズパーク)のところから入ります。

音楽寺入口も公園のほうです。

ハイキングコースになるので、歩きの人はこちらを通れます。

最初のうちは、車が通れるように思ってしまうような道ですよね。「巡礼道」とはなっていますが。

「巡礼みち23番」と矢印が書いてあるので、こちらの道を歩きます。

もうここからは、車が入れないことがわかるかと思います。


私も途中まではこの道を歩きましたが、雨が降ったり止んだりの天気だったので、濡れた道で雑木林を歩く自信が無かったので、また自動車道のほうに戻りました。

おそらくここから登るとかなり急な坂道になるのだと思います。

ということで、今回は長尾根みちを歩いていません。こういう自然の道のは、やはり晴れた日になりますね。

音楽寺は別の日にすでに行ってましたので、ここからは札所23番の音楽寺には行っていません。

明治巡礼古道からの長尾根道は、いずれまた、機会があるだろうと思っています。