札所6番の卜雲寺の次は、7番の法長寺に行きました。

札所6番の時も書きましたが、とにかく天気がコロコロ変わる日でしたので写真に写っている雲がおどろおどろしい色に写っていたりしています。

雨というか、みぞれ混じりの雨が降ったかと思うと晴れるのですよね。

秩父の巡礼は、折りたたみの傘くらいは持っておいたほうがいいと思いました。

冬でしたら、比較的安定した天気でしょうが、夏場は急変するかもしれません。

私は春のまだ寒い時期でしたけど、この天気の変わりようです。

 


牛伏堂とも呼ばれる法長寺

いつもの通り、歩き巡礼ですので、江戸巡礼古道を中心に歩いています。

曲がり角が見えたら、「青苔山法長禅寺」と書いてある石碑に矢印、そして手前にはブロック塀に札所7番と書いてある法長寺の看板です。

歩いていてもすぐ札所の存在がわかるようになっています。

 



山門のところには、なにやら岩のような石碑のようなものが見えます。

「法長禅寺」となっていますね。そのお向かいの岩には、「不許葷酒入山門」と書かれていますね。

岩の形がいびつになっているうえ、文字がよく見えないでしょうが、標語的なものは禅宗のお寺でよく見かけますからわかるでしょう。

山門のところには、「日本百観音秩父霊場」「札所第7番」ということと、「曹洞宗法長禅寺」ということがわかるようになっていました。


 

五重塔やお庭が素敵な法長寺

山門に入ってすぐのところには、ミニ五重塔があります。

本堂を設計したのは、平賀源内だそうです。ただし、古文書などは残されていないのだとか。

それにしても雲が怪しい色になっています。



武甲山をバックに、境内にあった豊川稲荷、豊川荼枳尼天のお堂の写真を撮りました。

荼枳尼天といいますが、豊川稲荷ですよね。

お寺と稲荷社の組み合わせです。

空が暗い雲になっていて、ところどころが雲が途切れて晴れていることがわかるかと思います。

天気が晴れていたら武甲山もきれいに撮れる場所だったでしょうね。



境内には椿の花が咲いていて、その下にはお地蔵様です。

形のわからなくなっているものもありますね。

その隣には、絵馬を掲げる場所もありました。

 


牛伏堂由来の牛の石像

本堂に向かって左に、牛伏堂の由来となった牛の石像がありました。

この他にも牛の像はありましたよ。

この牛の石像には2つの話が伝えられています。

 

行基が彫ったと伝えられる十一面観音像の由来にもつながります。行基が行脚した時、この地を訪れると背に負った自作の観音様がだんだんと重くなっていき、行基がそこに置いて道を急いだとのこと。

後に、土地の牧童が草を刈っていると、牛が現れてその場に伏って動かなくなったそうです。その場所で牧童が牛とともに一夜を明かすと、そこに観音像を見つけてお堂に安置したことから始まるという説がひとつです。

 

それとは別に、平安時代。平将門との戦で死んだ夫が妻の夢枕に立ち、この村で牛に生まれ変わっていると告げたお話です。

妻はその後、出家して夫の苦しみが消えたと伝えられています。妻が出家したお寺が牛伏堂ということなのでしょう。

いずれにせよ、牛との縁が深いお寺ですね。



今は、御開帳の時期ではないので、十一面観音像は見ることができませんが、行基の作と言われる観音像はこの本堂に祀られています。天明二年に観音堂が焼失して以来、本堂に十一面観音が安置されています。

本堂へあがる階段の脇には、大黒天と恵比寿様です。

商売繁盛にもなるのかな。

階段をはさんで、その左にも、黒い牛の像が安置されていました。

こちらは、由来の牛とは違いますが、牛にちなんだ像があるということです。

なんだか天神様のようですね。


平賀源内が設計してつながりが深い法長寺

本堂の脇の灯籠のところにも大黒さまの絵がついていました。

ここ法長寺には、本堂の欄間のところに「藤原不比等と海女」の物語が彫刻となってあるそうです。

それは四国88ヶ所霊場の志度寺、さぬき市にあるお寺に伝わる物語(玉取りの物語)だそうで、これも平賀源内とのつながりが言われるわけのひとつになっているそうです。

平賀源内は、秩父の鉱物資源開発に関わっていたとのことです。

 


本堂に向かって左手に行くと、納経所がありました。

雨だったり、晴れたりして不安定な天気だったので、御朱印をいただく時も天候の心配をされました。

 



次へと歩いていましたら、法長寺の裏手の石堤のところに、このような古くからあったと思われる石碑が立っていました。

歩き巡礼だから気がついたようなものです。

もしかしたら、昔はこちらから入るのが正面の山門になっていたのかもしれませんね。焼失したと言われる観音堂が近くにあったのでしょうか。

「秩父第七番観音霊場」と書いてあるのは、わかったのですが、その脇の「十一面観音」らしき文字がよくわかりませんでした。

しかし、こちらの碑のほうが古そうな感じがしましたよ。

そういえば、札所6番にしろ、7番にしろ、秩父札所と言われますが、住所としては秩父市ではなく、横瀬町になるのですよね。