めんま、じんたんといいますと、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』です。
私もアニメは見ましたよ。
見たあとだったと思いますが、秩父の龍勢祭も見に行きました。農民ロケットとも言われて、けっこう素朴なお祭りだったと覚えています。
手作りのロケットというのか、打ち上げ花火のようなものをお祭りで奉納するのです。
道の駅龍勢会館にも行きましたし、この定林寺にも行きました。
その時、アニメファンが、アニメと同じ情景を再現していて、それが終わるまで写真を撮ることやお参りを待っていたりと、アニメファン同志が思いを同じにしているのだなと思ったことを今でも思い出します。
その時も写真を撮っていたからなのか、今回の巡礼の旅では、均整の取れた美しい本堂の写真が少ないです。
まわりが畑で、林のような木々の間にみえるのが定林寺です。真横から定林寺を見ました。
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」で知られる定林寺
今でこそ、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』で知られる定林寺ですが、秩父札所ができた当時は、今とは違って札所の番付が1番でした。室町時代は1番定林寺だったのです。
元のお堂には妙見宮が祀られて、中心的存在だったからです。
ここからスタートして巡礼していたのです。
秩父札所は地域的な偏りがあるといわれています。特に武光庄と呼ばれた地域に分布しているそうです。
武光庄は、今の武甲山が昔は武光山といわれていたからでしょう。武甲山の麓に多い。だから武甲山の回りをめぐる巡礼だったのではないかということです。
定林寺の2度目の訪問は、脇の高台のほうから降りて行きました。
初めての訪問は、住宅地の中を通っていった記憶があります。
今回は、脇の高台から下って、畑のほうから入っていったため、鐘撞堂のほうから参詣させていだきました。
初回の訪問では気が付かなかった鐘ですが、梵鐘に百観音(西国、坂東、秩父)が浮き彫りになって、その札所の御詠歌が刻まれています。
お寺の鐘はついてもよいとされていましたが、注意書きに、お参りの前に撞くということが書かれてました。
帰る時についてはいけないのですよね。不吉といわれてますね。
今回は、梵鐘のほうから入っていったので、鐘をついてもよかったのですが、残念ながら撞いていません。
秩父三名鐘とも言われる梵鐘
参拝の前にして下さいとの注意書きがあります。
この梵鐘、銅鐘ですね。
秩父市というのでなく、埼玉県の指定有形文化財になっていました。
鐘のまわりに、秩父、坂東、西国の百観音の御本尊が浮き彫りに鋳出されていて、さらに百ヶ寺の御詠歌が刻まれています。
昭和三十九年三月に、埼玉県の有形文化財の指定を受けています。
宝暦八年正月ということで、1758年に作られていたそうです。
鐘の音色がいいとして、秩父三大名鐘のひとつだったらしいのですが、当初の鐘は、江戸時代初期の火災で焼失してしまったとのことです。
銅鐘のところには、「指定書」もありました。銅鐘は1口と数えるのですね。
参道のところには、地蔵堂ありまして、初めて行った時には気づいていませんでした。
さらにもっと記憶がなかったのが、境内に神社があったことです。
諏訪神社と蚕影神社です。
秩父は養蚕で有名なところでしたから、蚕影神社というのも納得です。養蚕、製糸の神様としての神社です。
秩父の養蚕業は、山の斜面に桑を植えて蚕を飼って、生糸を取るという産業として、一時は好景気にわいたそうです。
しかし、生糸の値段が大暴落して、養蚕の施設費用にお金をかけていた農民たちが高利貸しとの交渉したのです。
費用が払えないと困窮して秩父困民党となったのも、窮鼠猫を噛むと同じく、武装蜂起しなければならないほど追い詰められたわけです。
それにしても、よくお寺の境内に神社が残っていました。
神仏分離で切り離されなかったのでしょうか。
札所16番の西光寺でも書いたのですが、札所32番法性寺に残っている以前の秩父札所の順番では、この定林寺は、札所1番だったのです。
秩父神社との縁が深い林家の寺だったそうです。林寺という呼び名も残っているとのこと。
秩父神社は妙見宮とも呼ばれていました。妙見宮の管理者であった宮本地頭が札所の設置に大きな役割を果たしたともいわれています。札所が作られたのは、比較的短期間で作られたとか。
その宮本地頭は大宮郷に住む丹党武士団の嫡流にちかいといわれる中村氏ではないかと考えられています。
秩父札所でよくみかける絵も掲げられていました。
林太郎定元の話です。
「定元は、良門に追放され、定元の子、林源太良元は空縣という僧侶に育てられ、父のため堂宇を建立し、定と林を取り、定林寺とした」という由緒が書かれていました。
お寺の説明書きにも、定林寺の本堂は、簡素で均整の取れたお堂であることが書かれていました。
この説明書きの向こう側は私が来る時の通った畑が見えています。
寄木作りの十一面観音が御本尊です。
先ほどの絵に書かれていた縁起のように、「壬生の良門の忠臣だった林太郎定元は主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没した。その遺子空然はこの地に養われ、成人の後、父の菩提のため当寺を建立した」とほぼ同じことが書かれていました。
初めて来た時に気が付かなかったがもっとありまして、本堂の天井画があったことです。
かわいい絵も見えます。
本堂の裏手には、このような廊下のようになっているところもありました。
納経所は本堂の裏手にありました。
定林寺は、それほど境内も広くはないです。ぐるっと一回りしたら終わり、なのです。
納経所で目立つものといったら、アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』、あの花の登場人物立ちでしょう。
ポスターも何枚もありました。
私が以前来た時は、あつゆきのうちわを買いました。
私が初めて来たときとは、絵馬の絵柄が違っているような。
定林寺は、あの花の前後では、納経所に出しているものが全く違っているでしょうね。
地蔵菩薩の手作り人形は以前からあったのかもしれませんね。
おみくじも、「あの花おみくじ」ですよ。
めんまのお守りもありました。
今調べてみたら、あの花は、2011年の作品だったのですね。
春アニメで、終わってしばらくたった10月の龍勢祭りの時に行っていたことが判明しました。
もうすぐ10年となるわけで、時の立つのが早いこと。今なお、ファンがついているというのは、すごいことです。
秩父札所についての歴史も少し
帰り道は、本堂からまっすぐ先の道を通りました。こちらが表参道なのでしょう。
お寺の寺標がありました。お寺の旗もそうですがこの石碑も住宅地の中に立っていました。
先程も少し書きましたが、秩父の巡礼は実は武甲山のまわりをめぐる巡礼だったのではないかということです。
そのため昔の武光庄に札所が偏っていると。
では、武光庄以外ではどこかというと、矢畑庄、「三山郷」ともいわれていた場所にある十六番鷲岩殿(飯田、今の31番観音院)で、鎌倉時代に播磨へ行った中村氏の領地でした。
三十三番の水込は水潜寺だとすると、これも矢畑庄だそうです。
二十三番の岩本(下山田、今の3番常泉寺)、二十四番の四萬部(栃谷、今の1番)、二十五番の荒木(上山田、今の4番金昌寺)は恒持庄(恒持神社のあるあたり)にありました。この地域は旧高篠村で、丹党一族の山田氏、関口氏、加治氏が居住した場所で、丹党の氏神である丹生社も勧請された場所です。
丹生社を持つ旧村にある札所は江戸時代後期には33ヶ所のうち28ヶ所であり、丹生社との関わりが強いといわれています。
また札所は水源地にあるという研究者の指摘もあります。
ついでに、秩父には、七福神もあるのですね。
途中で見つけました。
布袋尊のお寺だそうです。