今回は、寺標からもわかるように明王山宝仙寺です。

関東三十六不動尊の札所めぐりや御府内八十八ヶ所霊場めぐりをしていると思ってもみなかったお寺さんに出会えます。

私も中野区のお寺はいくつか行ったことがあるのですが、ここ宝仙寺は初めてでした。

考えてみたら、宝仙学園は聞いたことがあったのに、です。

今回、中野区の宝仙寺に行った日は、別件の用事があってその帰りに立ち寄りました。

だから、みぞれ混じりの寒い日でした。

それで、写真にもみぞれが写ってしまっています。ご了承を。

しかし、寒い日にお寺参りもいいものですよ。

 

中野区で有名人、芸能人の葬儀といったら宝仙寺

まずは、どれくらい境内が広いかわかるように案内図を乗せておきます。

宝仙寺のまわりを囲むようにして、宝仙学園があります。

そもそもは、宝仙学園は幼稚園からはじまったそうです。お寺さんの隣に幼稚園があることって、東京都内だとよくみかけます。そういうのがスタートだったのですね。

赤塚不二夫さんの葬儀も、宝仙寺で行われたそうですが、有名人、芸能人、さらには政治家の葬儀も行われるくらいの大きなお寺です。

たしかに、テレビ局がたくさん取材に来るとなると、小さなお寺では近所迷惑になりますよね

それなら、これくらい広い宝仙寺のような場所がいいですね。

大師堂という広い会館のような場所もありました。

 


仁王像がある山門です。仁王門とも書かれていました。

忿怒の形相の阿吽像です。

これだけ広い宝仙寺ですので、写真を撮り忘れた場所や、行くことができなかった場所もあります。

特に、本堂裏手にあるお稲荷さんに行けなかったのが残念です。白玉稲荷と言って宝仙寺の名前の由来にもなった宝珠が祀ってあるそうなのですよ。

行きたかったです。本堂の裏手まで行けるとは思ってもみなかったのです。

山門からまっすぐ先に見えるのが本堂です。

初詣には、これだけ広い境内でも初詣客でいっぱいになるのでしょうね。

 

境内で目立つ三重塔

こちらの三重塔は、再建されたものだそうです。

もっとも三重塔のみならず、昭和20年の空襲による火災でお寺のほとんどが焼けてしまったそうですが。

三重塔のデザイン的には飛鳥時代の様式だそうです。奈良などでよく見るタイプのものと言えるでしょう。三重塔の中には、大日如来が安置されているそうです。

寛永13年、1636年、に三重塔が建立されたそうです。

前回のブログ記事に書いた最勝寺と同じく、徳川家歴代将軍の尊崇が厚く、御鷹狩りの休憩所としても有名だったそうです。

それにしても三重塔が目立つために、三重塔のほうが気になってしまって、その手前にある臼塚の写真を撮り忘れてしまいました(ちょっとだけしか写っていない)。

歴史的にも有名で、新聞記事にも取り上げられたりしたと聞く臼塚があったのです。

使っていた石臼の供養のためのものだそうで、包丁塚みたいなものなのかな。



本堂に向かって左には、弘法大師像が立っていました。

本堂の左にあるお堂は、御影堂となっていました。

弘法大師の尊像が安置されている場所です。

南無大師遍照金剛ですね。日輪弘法大師の標柱が御影堂前に安置されています。

元は山門近くの大師堂付近にあったそうですが、平成四年に御影堂建立で、この場所に移動したそうです。

石柱の正面には「日輪弘法大師」と刻まれていますが、日輪の「輪」の字は車偏でなく、あえて車を横向きの冠となっているそうです。そこまで見なかったので、気づきませんでした。

御府内八十八ヶ所用の御朱印にも「日輪弘法大師」と書かれていました。

標柱の「石柱左面の銘文から文化11年(1814)4月に常眞言堂(大師堂の別称)三世祐峯和南師によって造立」されたことがわかります。


本堂に不動明王がお祀りされている

みぞれが写真に写ってしまっていますが、こちらが山門からまっすぐ先の突き当りにある本堂です。

不動明王がお祀りされています。鎌倉時代の不動明王像だとか。

宝仙寺は、千年以上の歴史があると聞きましたから、秘仏となっているのは、奈良東大寺の開山で知られる良弁僧正の作だそうです。

だからこそ、関東三十六不動尊めぐりでも宝仙寺は選ばれているのですね。

成田山とかだと、お不動様のイメージあったのですが、宝仙寺も歴史ある不動明王像です。

しかし、残念ながら、扉がしまっていて、お会いできませんでしたが。

本堂には、そのほか、五大明王が奉安されているそうです。

本堂内陣の壇上には秘仏の本尊に代り、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王の立像があるとのこと。

安置されている五大明王は、不動明王のほか、左右の足で大自在天と烏摩妃を踏みつけている降三世明王、蛇を装身具のように巻き付けている軍荼利明王、五鈷杵と金剛鈴を持った金剛夜叉明王、水牛に跨がる大威徳明王です。


大書院にて、御朱印をいただきました

大書院が寺務所になっていて、そちらで、御朱印をいただきました。

関東三十六不動めぐりのものと、御府内八十八ヶ所霊場としての御朱印です。

御府内八十八ヶ所のほうは、弘法大師と書かれていました。ご本尊は、弘法大師となるのでしょうか。

それとも、本堂に祀られている歴史ある不動明王なのでしょうか。


大書院前のお庭です。

大書院は、仏事や法要にも使われているそうなので、このようなお庭を見ながら、となるのでしょう。

梅の花がちょっとだけ咲き始めていました。

3月には、ソメイヨシノが境内に咲いているそうですよ。その頃、椿も見頃かな。

最近は、ソメイヨシノの桜の開花が早いので、4月の花祭りには桜は散ってしまっていますね。


鐘楼は新しく平成28年にできた

三重塔から写した鐘楼です。

戦火で焼けてしまった宝仙寺ですから、徐々に再建しているのでしょうが、この鐘楼は、平成28年11月に再建されたものだそうです。

だからか、ピカピカできれいですね。


きれいな新築同様の鐘楼とその手前にあった水屋です。

そういえば、鐘をつく日は決まっているようでした。

毎月、弘法大師の縁日である21日と、不動明王の縁日である28日には鐘をついているようです。

 

堀江家の墓所もあり

ここの堀江家の墓所は代々宝仙寺の檀家総代をされていた堀江家のものになります。

墓所入口の六地蔵のところに説明書きの案内がありました(珍しい見送り地蔵もそばにあり)。

堀江家は、堀江家の先祖、兵部という人が越前、今の福井県からここの地にやってきて、弘治元年に中野の開発の着手したそうです。

中野区を開いたスタートというわけですね。当時の関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられたそうです。

江戸幕府が開いてからは、歴代の堀江家当主が中野村の名主となって有力な指導者になっていたとのこと。

堀江家によって中野村が次第に発展していったそうです。その事績は明治以後にまで続いたということです。これによって今の中野区の基礎となったわけですね。

ただし、堀江家は第十六代堀江恭一氏で途絶えてしまいました。

堀江家の長い年代にわたる村政及び幕府との関係を記した文書類は、現在「堀江家文書」として首都大学東京に移管し保管され、研究に供されているとのことでした。

堀江家の繋がりがあるお寺だったためか、中野区ではもっとも有名なお寺だったためか、ここ宝仙寺に中野町役場があったそうです。



仁王像の先に石碑が見えます。

鐘楼の前にあります。

うっすらと中野町役場の文字が書いてあるのがわかりますか。

中野区役所の前身である中野町役場跡の碑です。

明治28年から昭和初期まで、ここに中野町役場、今の中野区役所が置かれていたことがわかる石碑です。

 

講堂のような大師堂

芸能人の葬儀などで使われて、写っているのがこの大師堂なのだそうです。

ここで、葬儀、仏事ができるそうです。檀家さんは、本堂脇の大書院にて法事を行うようですが、それ以外の人にも貸し出ししているのが、こちらの大師堂のようでした。

これだけ広くて講堂のようになっているからこそ、芸能人、有名人の葬儀でも使われるのでしょうね。

これだけのスペースがないと有名人の場合、人が溢れてしまいそうですから。



山門の仁王像のほうから、大師堂を写してみました。

山門の仁王像は、戦前はもっと青梅街道のよりの場所に立っていたそうですが、戦後はここにあるそうです。

宝仙寺は、戦火で建物が焼けてしまっていますが、そのかわり、石碑や石塔のようなものに文化財としての重要なものが多いと感じました。

どうしても建物のほうに気を取られてしまいますが、もしこれから宝仙寺に行かれるのなら、境内に点在する石塔、石碑にも注目してみてください。