岩槻大師は、山号、院号、寺名でいいますと、「光岩山 釈迦院 岩槻大師 彌勒密寺」となります。
石碑には、岩槻大師、彌勒密寺と書いてありまして、山門の額には、「光岩山」の文字が見えます。
先日、岩槻めぐりに行ったとき、慈恩寺で観音めぐりをした時に一緒にこちらの岩槻大師にも立ち寄りました。
関東36不動霊場の第31番札所です。
上の写真をみていただくと、この彌勒密寺の説明が終わってしまうほど、どのようなものを見ることができるかわかるように、見どころ満載のお寺です。
「本堂の地下で、四国八十八ヶ所お遍路ができます」、と書いてあります。
「胎内くぐりの立体マンダラ、お砂踏み道場の地下仏殿があります」とも書いてありますね。
私が行った時もけっこう御朱印をいただきに人が来ていましたね。
お不動様目当ての人もいれば、四国八十八ヶ所めぐりのお砂踏みに来た人もいました。
歴史は古く奈良時代末期に開けたお寺
今でこそ、新しいお寺に見えますが、歴史は古く奈良時代末期の創建のお寺です。
ご本尊は五大明王で、四国八十八ヶ所のお砂踏みをやっていることからもわかるように真言宗智山派です。
桓武天皇の兄である開山第一世開成和尚が、諸国修行の途中で、ここ岩槻に立ち寄り、疫病に苦しむ人々に出会ったそうです。
今も昔も疫病と人間の戦いがあったのですね。その人々を救うために、ここで発見された金色の弥勒菩薩を安置して宝亀5年(774年)に創建したのだと伝えられています。
このへんのくだりは、坂東33観音札所めぐりのお寺でも縁起としてよく見かけます。
大同2年(807年)に弘法大師が諸国を回った折に、ご本尊である大日大聖不動明王のほか、東方守護の降三世明王、南方守護の軍荼利明王、西方守護の大威徳明王、北方守護の金剛夜叉明王を彫像されて、五大力尊として安置されました。東西南北の守護にプラスして中央となる不動明王ですね。
この頃から、岩槻一の知られた寺院として栄えました。
鎌倉時代には、北条氏の崇敬を得ました。妙澤筆の不動明王・制多迦童子・今迦羅童子の三福の掛け軸ならびに藤原吉次鋳造の梵鐘を寄進されています。お寺の宝、寺宝となっています。
お寺によくある稲荷社も
お寺にお稲荷さんがあるのは、よく見かけますが、ここ彌勒密寺でも入口ちかく、山門のすぐそばにありました。
稲荷堂にも真言と梵字が書いてありました。
稲荷堂から右側を見ると、お地蔵様がたくさん並んでいて、そのさらに奥に不動堂があるのがわかりました。
お不動様を助ける眷属である、いろんな童子像がまわりに立っていましたから。
岩槻大師と言われるだけあって、なかなか立派な不動堂です。
こちらのお不動様は、北向観音ならぬ、北向不動とも呼ばれていたそうです。
江戸時代、徳川家康が亡くなり、日光東照宮に葬られたら、御本尊が北向きに動いた、という言い伝えがあるからです。
日光御成街道沿いでもあり、東照宮を守るお不動様、さらには江戸の町も守るとして「北向不動」と言われるようになったそうです。
今では、北向不動の文字を、喜多向に変えて、喜多向不動と書くようになりました。
喜びが多いという文字は縁起が良さそうですね。
お不動様の眷属である、36童子が不動堂の周りに立っています。
こんがら童子、制多伽童子など有名ですよね。寶蔵護童子、虚空蔵童子、虚空護童子、金剛護童子、佛守護童子などが見えます。
私は知らなかったのですが、これらの童子にはそれぞれご真言があるのだそうです。
安産子育ての人形大師
岩槻人形でも有名ですが、人形の町、岩槻らしいなと思ったのがこの「人形大師」です。
子育て、安産祈願となっています。弘法大師かと思ったのですが、人形大師でした。
その奥には、薬師堂です。
薬師如来が安置されているのでしょうが、残念ながら見えませんでした。
薬師堂の欄間には、怖そうな龍の彫刻がありました。これもかなり古そうにみえます。
薬師堂のところには、絵馬がいくつか掛けられていました。
交通安全の祈祷殿にもお不動様が
お不動様というと、「守護」護りというイメージが強いのですが、どこのお不動様に行っても、けっこうな割合で、交通安全の祈願堂があるのですよね。
参道を挟んで、不動明王の不動堂や薬師堂のお向かい側に安産祈願殿がありました。
喜多向不動の岩槻大師も同じように、交通安全祈願殿がありました。
車やバイクなど新しく買ったら、交通安全を祈願しに、ここに来るのでしょう。
誰しも交通事故は、もらいたくないし、自分が起こしたくないですものね。
こちらにも龍の彫刻が見えます。
彌勒密寺の本堂へ
さて、本堂へと参道を歩いていきました。山門からは本堂が一番奥になります。
関東三十六不動霊場第三十番の看板のところには、「厄除 岩槻大師」と書かれています。
地下仏殿 四国八十八ヶ所お砂ふみの文字も見えます。
本堂に上がってみました。
なぜか、お不動様の総開帳の時のポスターがありました。
不動明王は酉年に御開帳ですよね。
3年前になりますね。
護摩木がありました。大が300円、小が200円とのことです。
お不動様というと、護摩焚きです。護摩札が目的で来る人も多いことでしょう。
本堂内には、本堂向かって右側にある寺務所から入ります。ここが納経所となっています。
地下の四国八十八ヶ所のお砂踏みができる地下仏殿もこちらから入ります。
年中無休、朝九時半から夕方四時半までとなっています。
まずは、本堂の内陣に入ってお経を唱えました。
本堂に入る前に、入口の鐘のところに、なぜか、亀の標本がありましたよ。
本堂では、護摩焚きができるように設置されていました。
その後、また寺務所に戻りまして、御朱印をいただきました。
寺務所には、地下仏殿の四国八十八ヶ所めぐりのための笈摺が置いてありました。
せっかくなので、私も地下仏殿に行ってみることにしました。
この地下の四国八十八ヶ所お砂踏みができるお遍路道場については、地元の新聞でも取り上げられたそうで、新聞記事の切り抜きもみました。
こちらが地下仏殿の入口です。
南無大師遍照金剛と書かれた紙が貼ってあります。
入口の階段のところには、地下仏殿、四国八十八ヶ所巡拝、地下道場入口となっていました。
地下ですので、階段を降りて行きます。
驚いたのが、最初に、八十八ヶ所の全部のお砂「全お砂」の袋があったことです。
もう、ここを踏めば、OKではないのだろうか。
ここから階段で、暗くなっておりますから、必ず手摺におつかまりになって、ゆっくり進んでください、となっています。
階段だけではなく中が本当に真っ暗になっていましたから、手摺につかまる必要があります。
あまりにも暗かったので、誰か人にぶつかったりしないかと心配したほどです。
幸いにも、私が入った時は、誰もいませんでした。
四国八十八ヶ所のご本尊が並ぶ地下仏殿
本当に胎内と思われるような真っ暗なところを手探り状態になりながら、ゆっくりゆっくり進んでいきました。
すると、暖簾のようなものにぶつかり、そこを突き抜けたら、四国八十八ヶ所のご本尊が並んでいました。
たくさんの写仏、写経が貼ってありました。
仏様だけではなく、弘法大師のお姿を描いている人もいるようですね。
写しですが、飛行三鈷杵もありました。
南無大師遍照金剛と唱える声が聞こえ、鈴の音も時々聞きました。テープで流れているのかな。
千羽鶴も掲げられていましたよ。
それぞれのお砂をいれた袋が下に置いてあるので、それをひとつひとつ踏んでいきます。
四国八十八ヶ所をめぐるのは、関東からですと、経済的にも体力的にも恵まれた人に限られますから、このような場所も必要です。
それにしてもお砂は実際にいって取ってきたわけでしょうから、それはそれで大変なご苦労ですね。
お砂が入った袋も黄色、赤、紫色と色とりどりでした。
もしかしたら、四国の県によって違っていたのかもしれませんが、確認してません。
八十八ヶ所のお姿踏みを全部、回って終わりますと、1階の本堂へとなっていました。
階段を登って戻ります。
最後に、本堂の中に戻って、本堂の左手が、「高野山奥の院」ということになっていました。
あの高野山の奥の院をイメージしているようです。
とはいうもの、本堂の中ですから、あの荘厳な奥の院とはちょっと味わいが違いますけどね。
奥の院としている場所には、弘法大師の像がいくつか置いてありました。
それとお釈迦様の像もありました。
先ほどの、笈摺ですが、一人ひとり着ることができるように用意されていました。
南無大師遍照金剛の文字と、同行二人となっていて、本格的なものでしたよ。