秩父札所には、お気に入りとなるお寺がいくつかありますが、今回ご紹介する岩之上堂は私のお気に入りのお寺のひとつです。
意図しないで行ってみたところ、桃や桜などが美しく咲くちょうど満開のいい時期に行けました。
このようなことはめったにないことでしょう。
私は、20番を先に次に19番という逆打ちの順番で回りましたが、荒川をはさんで両側に立つお寺となります。
この岩之上堂のほうが、下へと下っていくことになるので、河岸ということがわかりやすいと思います。
ですので、上の写真のように、道路からは見下ろす形になります。
階段を降りてお寺へと行きます。石段も雰囲気がいいです。
遠くに見える秩父の山並み。残念ながら、ここの場所からは荒川は見えませんね。
花桃や桜が咲く美しい境内
先ほどの写真でもお堂とともに、花の咲いているところがわかるかと思います。
こちらは、降りていった先の桃の花です。濃い色なので、桃ではなく、ハナモモですね。
ちょうど満開の見頃の時期ですね。その向こうには、枝垂れ桜です。枝垂れ桜は終わりの頃かな。
とにかく、どこもかしこも花ばかりです。
桃源郷というイメージでした。
昔は渡し船に乗って参詣したというお寺が岩之上堂
階段を降りると、観音堂が見えます。
桜が咲いている時期でした。
観音堂の前には、休憩所のような場所があって、その裏にも、ピンクの花(ハナモモ)や桜らしき花がみえます。
休憩所があるのもわかります。本当に、ずっといたくなる場所です。花をぼおっと眺めていたかったのですが、次の札所も行こうと思っていたので、お庭はざっと見るだけにしました。
手前の花は名前がわかりませんが、紫色の花です。ハナダイコンっぽくみえますが、どうでしょうか。
サンシュユっぽい黄色の花もみえます。
花の名前がいまいちわからないのが残念です。ここにいると、川の流れる音が聞こえました。
お寺の説明書きの隣には、如意輪観音様の石像がありました。
その隣はお地蔵様ですね。供養塔も並びます。
岩上堂の聖観音像という説明書きがありました。
先ほどの如意輪観音様とは別ですね。本堂にある聖観音菩薩です。
有形文化財でもあります。
「この寺は、秩父三十四ヶ所観音霊場のうち二十番の岩上堂といい、江戸初期に作られたものと言われた。三間四面の屋根方形造りで、向拝付唐様の系統で札所の内でも指折りの建物であります。
延宝初年内田家先代の内田武左衛門尉政勝再建
堂内に安置される本尊聖観音像は吉田町菊水寺の聖観音に次ぐ代表的な仏像で藤原末期の作。像の高さ約七十cm寄木漆箔、桧材一刀彫であります。
かつて天皇七二代白河院の詔によって建立された荘厳な堂でありましたが、応仁の頃から次第に廃れ本尊のみ岩の上に雨にさらした時もあったようです。
本尊を安置した厨子は内面が金箔にてぬられた上に三十三身の像と、日天月天像風雷神等の半肉彫を貼付した江戸上期の作として共に貴重な文化財です」
と書いてありました。
白河法王の詔だから法王院という院号なのでしょうか。
秩父札所で最古の建築となるお堂
この岩之上堂が立つ場所は、河岸段丘と呼ばれる場所にあります。
河岸段丘というくらいですから、川のそば、荒川のすぐそばであることは、地図を見たらすぐにわかります。
河岸が階段状になっているのを河岸段丘といいます。
その平らな部分に立つのが岩之上堂です。
残念ながら、観音堂前の桜は散っていますね。
参拝してから知ったのですが、こちらの岩之上堂は、秩父札所で一番古い建物だそうです。
最も古い江戸初期の建築とのこと、堂守を務める内田家の先祖が建てたものだそうです。
元禄年間に内部の補修をして、宝永年間に彫刻の補修をしたとのことです。
やはり、補修を重ねて維持していかないと、廃墟のようになってしまって、全部を建て直しとなってしまうのでしょうね。
昔は、渡し船に乗って荒川を渡り、19番の札所である龍石寺から来たのでしょう。
岩之上堂の近くには秩父橋(現在は、旧秩父橋ととも存在)が明治18年にできるまで、荒川の船着き場から登ってお参りに行ったそうです。
今は、道路から石段を下っていくわけですが、昔は、上っていったのですね。
岩上堂と書かれた額です。
お堂の前には、般若心経が書かれたマニ車がありました。
お堂の中には、つるし雛のような形で、くるくる回る花がありました。
観音堂の中に、いつもの定番、秩父札所でよく見る絵が掲げられていました。
寺尾村の孝子と書いてあります。
寺尾に住む孝行息子が川向こうの宮路の病の老母を見舞う時、大雨で渡れない川を観音様が童子舟に姿をかえ、母に会うことができた、と書いてあります。
その周りには、天女の彫刻です。下がっているのは、調べてみると千疋猿のようですね。それと千羽鶴です。
奉納されたものでしょう。
札所19番の龍石寺も一枚の岩盤の上にお寺が立っていますが、この岩之上堂も名前のとおり、岩の上に立つお堂のようです。
まわりは土ですが、お堂のところは岩になってゴツゴツしていました。
また、岩之上堂の境内には東京港区の増上寺にあったという石燈籠があるそうなのですが、どこなのかわからず。
こちらが観音堂の裏手です。
岩の上に立つことがわかるかと思います。
岩のまわりは水が流れていまして、お堂の周りを流れる小川のようになっています。
裏手に私が降りてきた石段とは別の石段がありまして、そちらの先には祠のような小さなお堂がありました。
裏手に咲いているのは、イワツツジでしょうか。
このような小さな祠です。熊野権現社です。こちらにもお像が祀られています。
鎌倉時代の武士団と熊野信仰とは関係外出あり。深く信仰していたとのこと。
これとは別に、観音堂の前からさらに荒川のほうに下っていくと、奥の院と呼ばれる「乳水場」があるそうなのです。
しかし、現在は、場所が危なくなっているため十分気をつけないといけない場所とのこと。
普通は、奥の院というと、山をさらに登っていったところにあるものですが、岩之上堂の場合、すべて荒川に向かって降りていく形になるので、奥の院というと、下って降りていく場所にあるということです。
「乳水場」というのは、ここの水を飲むと、乳の出がよくなるという言い伝えがあるからだそうですよ。
その水を使って、お粥を炊くのもいいそうです。
下にあるという奥の院には行けないので、上にある道路のほうに戻ってもう一度写真を撮りました。
上のほうからは、ハナモモの濃いピンク色や桜の薄いピンクなどきれいな花々が一望できます。
ここからだと枝垂れ桜の少し見えました。
こんなに花がきれいな時に訪問できてよかったです。
お気に入りの札所になりました。
実際には見なかったのですが、延慶の青石塔婆がありました。
埼玉県指定史跡とのこと。道路を隔てたところにあった模様。
鎌倉時代延慶三年(1310年)の史跡です。武蔵七党の一つ丹党関係資料。
武蔵七党とは、平安末期から鎌倉時代にかけて武蔵国にかけてあった同族的武士団ということです。
鎌倉幕府創業時の秩父出身の武士の名前が刻まれているとのことです。
この看板が立っているところをまっすぐ歩くと、龍石寺への近道、人だけが通れる道がありました。
その近道、迂回路の出口です。こちらからは、20番の岩之上堂のほうに向かっていく道になります。私は、これから逆の札所19番に向かっていますが。
徒歩のみとなっているので、自転車もダメですね。
ここの坂道も細いですが、上のほうでも畑道のような場所を通りましたから。
こちらの橋が、先ほども書いた秩父橋です。
旧秩父橋から、新秩父橋に向かって写真を撮りました。遠くに武甲山も見えますね。
このように武甲山は秩父札所めぐりのランドマーク的存在です。どこからも見えるというのか。
実は、旧秩父橋は3代目になりまして、初代の橋は橋脚だけが残っているそうで、私が歩いているのは旧秩父橋とはいえ、2代目になります。
そしてここ2代目の旧秩父橋はアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の場面にも出てくる橋なのです。
この旧秩父橋を通って、札所20番から前回ブログを書いた札所19番へと逆方向に歩いて行きました。