今回参考にしている江戸時代のガイドブック『秩父順礼独案内記』によりますと、日本橋スタートではなく、第一の道である川越通は、本郷森川宿をスタートとしています。

日本橋から本郷森川宿までは江戸に住む人なら知っている道なのでしょう。

ということで、プレスタートとして、「日本橋から秩父札所を目指して歩く」の第1回は、本郷追分一里塚(本郷森川宿付近)まで書きました。

前回の記事

中山道を通り本郷の追分一里塚跡まで街道歩き(1)秩父を目指す旅は江戸時代の秩父巡礼ガイドブックに沿って

 

第2回は江戸時代の秩父巡礼のガイドブックのスタートである本郷森川宿を出たところから始めます。

『秩父順礼独案内』は埼玉県立図書館のサイトでみることができます。

資料詳細:埼玉県立図書館

前回は本郷森川宿近くの本郷追分一里跡(東大農学部前)まで書きました。

ちなみに『秩父順礼独案内』には、「本郷森川宿」となっていて、くずし字で読める範囲を解読すると、ここには追分があって、まっすぐに行けば岩槻道で、左に行けば板橋通平尾町へ出るということが書いてあります。左は畑だとか。

 

そこまでは江戸時代の秩父順礼ガイドブックには書いていなかったので、そこまではプレスタートとしてみてください。

ここから『秩父順礼独案内』に出てくる本郷森川宿からの話です。

さて、本郷森川宿の付近にあった本郷追分一里跡のところを左手に曲がり(岩槻街道はまっすぐ歩く)道に沿って歩いていくと、地下鉄の白山駅が見えてきます。

ここまでは近くに岩槻街道があります。

本郷森川宿近くから白山神社に寄り道

本郷森川宿から白山方面に歩いていますと、以前に江戸三十三観音で参拝したことのある円乗寺があります。八百屋お七の墓のあるお寺としても知られています。その円乗寺前の浄心寺坂を通って白山神社へ寄り道しました。

白山神社があるから白山という地名になったようです。

その白山の一部、ここ円乗寺付近は別の地名だったそうです。旧町名としては指ケ谷町という地名だったとのこと。

昭和39年8月までは現在の白山の一部は指ケ谷町といっていたわけですね。丙戌書上には「町名指谷」とあったわけですが、その由来がわからないそうです。

現在は八百屋お七の墓がある円乗寺ですが、八百屋お七の住んでいた場所に近いお寺だそうです。

上の説明書きですが、「指谷」という旧地名の説明もありますが、やはり八百屋お七の話が書いてあります。寺小姓の左兵衛と恋に落ちたお七が吉三郎にそそのかされて放火した事件のことです。

この付近には、大円寺も近くにあります。お七が左兵衛と会ったのが天和の火事で避難したお寺なのですが、その時の火事の火元になったのが、ホウロク地蔵がある大円寺と言われています。

焙烙をかぶっているお地蔵様です。ここでお参りすると目の病気や頭痛によいとか。焙烙に痛むところと名前を書くようになったそうです。さらにはこの焙烙の文字を俸禄と解釈して給料が上がることを願う人たちも参拝したとか。

大円寺も江戸三十三観音の巡礼で参拝しました。

大円寺や白山神社が付近にある白山上の交差点です。

白山神社は加賀国(今の石川県)一宮白山神社を本郷に勧請したことから始まります。

その白山上交差点近くに、旧町名の案内がありまして、ここ一帯は駒込村とのことで、駒込宿があったことがわかりました。中山道の東にあったので、旧駒込東片町と言っていたそうです。

「寛永年間、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり村民は中山道の東側にうつって。片側町であったので、駒込片町といった」

とあります。最初は、単なる「片町」だったのですね。



ここにも前回最後に書いた追分一里塚のことが書いてありました。

岩槻街道と中山道を分ける追分です。


旧中山道はタネ屋街道

さらにしばらく歩いていくと巣鴨駅が見えてきました。

今でこそ、おばあちゃんの原宿といわれてますが、巣鴨の商店街は、昔は中山道だったのです。

巣鴨地蔵通り商店街が旧中山道になります。

おばあちゃんの原宿こと、巣鴨の商店街の入り口には真性寺があります。御府内八十八ヶ所でもあり、江戸六地蔵でもあるお寺です。

その真性寺のところに、この「旧中山道はタネ屋街道」の説明文がありました。

後でも書きますが、東京種苗株式会社もあった中山道です。

なかなかおもしろいことが書いてあったので、写真だけでなくブログにも引用します。

旧中山道を通る旅人の中には弁当食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。

旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを、扱う専門店ができ、タネ屋街道になっていました。

寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪から来たタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れに来た模様が記されています。

馬12〜3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われてました。

弁当を食べる旅人が、農家の農作物に興味をもち、その種を持ち帰る。

それが商売になったのですね。最初は農家の副業が、次第に種を商売にする。そのために、種を扱う店が街道にあったということです。さらには、富山の薬売りのような種の行商まで行われていたということです。

きっかけは、弁当を食べた旅人ですよ。


真性寺の芭蕉の句碑など


芭蕉の句碑が真性寺にはあります。

「白露もこぼれぬ萩のうねりかな」(志ら露)

寛政五年に建てたものだそうです。


地蔵と言えば六地蔵だった



真性寺のお地蔵様は頭に笠をかぶっています。

江戸時代、地蔵といったら六地蔵でした。

江戸の六ヶ所に置かれた江戸六地蔵の第四番が真性寺のお地蔵様です。

 


今は、巣鴨の地蔵と言えば、こちらの高岩寺の地蔵をいうようになりました。

こちらは「とげぬき地蔵」です。

そもそもこの高岩寺は巣鴨にありませんでした。最初は神田明神下にありそれから今の台東区に移り、明治になってからこの場所に移転してきたということが書いてあります。

ということですから、江戸時代に歩いて秩父に行った参拝者たちは、高岩寺ではなく、真性寺のお地蔵様をみているわけですね。

 



病気の棘をぬく、というお地蔵様。

小石川に住む田村氏の妻が出産後重い病気になりました。

この田村氏は妻が以前から信仰していたお地蔵様にすがるしかないと思い、熱心に祈ったところ、ある日夢枕に僧が現れ、自分の姿と同じものを彫って河水に浮かべるように言いました。

彫るのはできないというと、印像を与えると言われて目がさめたそうです。枕元には木のふしのようなものが置いてあったとのこと。

それを写して御影を造り、隅田川に浮かべたところ妻の病気が治ったという話です。

それ以来、身体の悪いところを水で洗うと病気が治るということから今でもとげぬき地蔵を訪れる人がたえないのです。



こちらは、とげぬき地蔵の隣にある「小僧稲荷」です。

この高岩寺の裏手には、国道17号を渡ると染井霊園があります。

染井霊園には二葉亭四迷、高村光太郎、智恵子などのお墓があるそうです。

桜のソメイヨシノは、ここの植木屋さんが売り出した品種だとか。染井吉野と書きますね。

 



染井霊園の隣には、東京都中央卸売市場豊島市場があります。

江戸時代、この近くの岩槻街道沿いに野菜市場があったそうです。江戸三大市場といわれるくらい大きな市場で、幕府に野菜を上納していたとのこと。

その市場の流れなのでしょうか。今はない市場の代わりとして作られたのか?


本妙寺は明暦の大火(振袖火事)で知られる

豊島市場の裏手には、本郷にあった本妙寺がこちらに移って現在あります。

この本妙寺には明暦の大火供養塔があります。


本妙寺には、遠山の金さんこと、遠山金四郎、遠山左衛門尉景元、剣豪の千葉周作、さらには本因坊歴代の墓などがあります。

 



やはり有名なのは、振袖火事でしょうね。

明暦の大火の供養塔です。江戸の町の三分の二が焼けたといわれています。



こちらが、剣豪の千葉周作成政のお墓です。



こちらが、名奉行の遠山金四郎景元のお墓です。

今も人が訪れるのでしょう。

さて、寄り道はここまでにして、旧中山道に戻ります。

 



巣鴨商店街をしばらく歩くと、「中山道待夢」と書いてある巣鴨地域文化創造館があります。

中山道の街道にある雰囲気を残しているようです。

昼に日本橋を出たのですが、お正月頃は日が暮れるのも早くて周りは暗くなってしまいました。

巣鴨商店街の出口になる巣鴨庚申堂に着く頃には日が落ちて真っ暗です。

巣鴨庚申塚跡になります。


初庚申の日に再度行ってみた巣鴨庚申塚

こちらが史跡、巣鴨の庚申塚です。

残念ながら暗くなってしまって、写真もうまく撮れない感じです。

これはこれで雰囲気あっていいのですが。



こうやって提灯が明るく灯されていることはわかりました。



お堂のそばには「史跡 巣鴨の庚申塚」と書かれた木評がありました。

初庚申の日もわかりました。六十日に一回訪れる庚申の日にこちらのお堂が開くこともわかりました。

調べてみると庚申の日の午前中くらいなら、御朱印もいただけるとか。

いくつか写真も撮ったのですが、出直すことにしました。


巣鴨猿田彦大神庚申堂というようです。

こちらが庚申堂の由来記です。

明暦の大火のことも書いてありました。文亀二年にここに建立されたのですが、明暦三年の明暦の大火の時に文亀二年の碑を埋めてしまって作り直ししたようです。

「されば巣鴨庚申塚というは文化十二年に至りて三百十四年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」だったようです。

今思うと、暗くてよく見えてなかったものもあったなと思います。

初庚申の日、再訪問しました。

60日に1回ですから、約2ヶ月に1回くらいの割合である庚申の日ですが、やはり正月最初の庚申の日は重要なようです。

松もしっかり残してあります。

午後2時までとなっていますが、お参りするなら早めが良さそうです。私は12時頃に行ったのですが、午前中で片付けはじめているようでした。



お供え物もしっかり置かれていました。

これはちょうど写真が撮れたのであって、次から次へと人が参拝に訪れていました。



狭い土地を利用して手水舎もありました。



石碑には江戸時代の様子も描かれていました。

旅人の休憩場所として茶店もあったようです。




狛犬ならぬ、狛猿?

台座には「見ざる言わざる聞かざる」の三猿です。



両脇で猿が守っているようでした。


商店街の人たちがしっかり中山道の巣鴨庚申塚の伝統を伝えているのですね。



こちらがいただいた御朱印とお塩です。節分もやっているようですね。年によって庚申の日が異なりますが、令和3年は1月が初庚申、5月が大祭そして、11月が納庚申となっていました。

 

庚申堂の近くには徳川家に仕えた春海和尚が建てたとされる大日堂や明治女学校跡の碑があるそうです。


都電の駅を越えると東京種苗株式会社

こちらの古びた建物は、大正大学の手前にある東京種苗株式会社です。

先程も書いたように「旧中山道は、タネ屋街道」と書いた看板が真性寺のところにありました。

この一帯には、滝野川三軒家と呼ばれた三軒が種子を扱っていたそうです。

 

ガラス戸に「農業種子生産卸 東京種苗株式会社」と書いてありました。

 

そのすぐ隣に大正大学のサザエ堂です。最初は夜にここを通りまして、ライトアップがカラフルできれいだと目を引きました。

 

鴨合観音堂というサザエ堂へ


鴨合観音堂と書かれていました。


庚申の日に再度ここを通ったので昼間はガラッと変わって落ち着いたお堂に見えました。

ここまで来ますと、巣鴨商店街のような繁華街というよりは落ち着いた通りです。


観音堂は9時から5時までお参りできるようです。



さっそくサザエ堂の中へ行ってみることにしました。

御開帳の時によくみる回向柱のようなものも立っていました。



中は撮影禁止なので、ここまでです。


お参りを済ませて外へ出ると裏側でした。



さざえ堂の絵馬をかけるところには、なぜかタコが。

さらに中山道を歩いていきます。

亀の子束子の社屋はお店に

当初通った時の亀の子束子西尾商店の建物です。

大正時代の頃の建物と言われています。


イギリスとかにありそうな洋館建築ですね。

亀の子束子はオシャレな建物の会社だったのです。

今も我が家では、亀の子束子を使っております。



ここで実際に今でもたわしを売っています。亀の子束子の本店になります。

クリスマスリースかと思ったものは、タワシでできていました。

板橋駅前の一里塚跡地が不明

さらに歩くと、JR埼京線の板橋駅近くになります。

ここらあたりが、日本橋から二里の平尾一里塚の跡地です。

ですが、なにか立て札でもあればいいのですが、何もないのです。


跡地とされるあたりから板橋駅に向かうところが、一段盛り上がった土地になっています。

玉川上水の分水として流れていた千川上水がここを通り、中山道の下を木管で通っていたそうです。

そのなごりがこの盛り上がった場所らしいのですが。

商店街なのに、なぜか大きな石が置いてありました。



これらが平尾一里塚の目印だったのか?

とにかく平尾一里塚はわかりませんでした。

 

新撰組志士の供養塔と近藤勇の墓


板橋駅のほうに向かうと新選組の供養塔があります。

数年前に訪れたことがあったのですが、少し寄り道をしてみます。

近藤勇と新選組隊士供養塔となっています。

近藤勇は、平尾一里塚付近にあった刑場で処刑されました。

処刑後、ここに埋葬されたのですね。

近藤勇が埋葬された当初の墓石もありました。

 



 

処刑された日なのか、埋葬された日なのか、石碑に刻んでありました。

近藤勇だけでなく、土方歳三の名前もありました。



板橋駅前にある「板橋縁宿、むすびのけやき」です。

ここから板橋宿となります。当初、日本橋から歩いて来たときは、ここで終わりにしました。

ですので、これは暗くなってからの光景です。

昼間の光景は、巣鴨庚申堂へ初庚申の日に行った時のものです。

仲仙道踏切は仲仙道の文字

板橋宿からの続きは、庚申堂へ行ってから歩くことにしました。

板橋駅近くの平尾一里塚から埼京線の踏切を越えました。

今は埼京線ですが、以前は赤羽線でした。ここには「赤羽線仲山道踏切」と書かれています。

それも仲仙道です。仲仙道と中山道は書き方、両方とも見かけます。

 

板橋宿のうちの板橋平尾宿

ここに説明書きがありますが、中山道の第一宿がここ板橋平尾宿です。

六十九宿あるうちの一番目になります。

先程の平尾の一里塚が日本橋から二里でしたが、ここまで来ると日本橋から二里九丁なのですね。

駕籠、馬借などがあったとのこと。

中山道と川越往還(川越街道)の分かれ道の平尾追分

このまま中山道を歩いては、秩父への「川越通」に行かないので、ここからは川越往還を歩きます。
川越街道ですね。

まだここは旧中山道です。


このあたりが、中山道と川越街道を分ける平尾追分です。

りそな銀行前から分かれます。

ちなみに『秩父順礼独案内』には、「平尾町」となっていて、これまた私が判読できる範囲でいうと、追分がありと。右のほうは中山道で、下板橋に、左の方が川越道で、上板橋へ十町、元御上水(千川上水か?)があって、小さい橋があると。

 

まっすぐ行くと、このように「板橋宿」に行ってしまいます。

板橋区役所のほうへ行かずに、分かれます。

その前に、ちょっと寄り道して東光寺へ。

板橋宿の東光寺

当初は船山という場所にあった寺院です。山号が丹船山というのも、その地名から来ているそうです。

加賀藩主前田家下屋敷が板橋に移転してそれに伴って移ってきたそうです。移転当時は、旧中山道に沿った場所にあって、賑やかだったのですね。


 

板橋区の指定文化財になっている石造地蔵菩薩座像と寛文二年の庚申塔がみえます。

庚申塔は上に笠があり、青面金剛立像、童子、邪鬼、夜叉、猿、鶏が彫られています。

地蔵菩薩座像は大きめなのでわかりやすいです。



説明書きの隣に見える塔、梵字が書かれた塔が、供養のために明治になって建てられた供養塔です。宇喜多秀家の墓と言われています。関ヶ原の戦いで敗けたのが明治になってここに墓を建てたのです。

 

道の真ん中に四ッ又馬頭観音

さて、元の道である平尾追分に戻って旧中山道ではなく、川越往還、川越街道へ歩いていきます。

 

四ッ又交差点に向かって歩いていきます。

上を首都高中央環状線が走っているのですが、拡張工事があって下の道は歩行者は歩けるようになっていて、その道の真ん中の地帯に立つのが四ッ又馬頭観音です。

 

大山駅に向かう道の手前にあります。四ッ又は、昔は高田雑司が谷道と呼ばれた古い道と交差する場所だったそうです。

 



都内の道の真ん中にしては珍しいと思ったので、説明書きを引用してみます。

 

四ッ又馬頭観音は享保十九年十月十九日に作られ当初より四ッ又にありましたが、近代以降に板橋区板橋二丁目五八番の地に安置されました。ここは、江戸時代に中山道の宿場町であった板橋宿平尾から分岐した川越街道と板橋中宿から池袋方面へ延びる高田道が交差する地点にあるたります。四ッ又は、交通の要衝であり、この馬頭観音も、道しるべとして知られていました。

馬頭観音は七観音のひとつで頭上に馬頭をいただいています。供養の目的は像容からみてわかるように、牛馬の供養と結びつき造立されました。江戸時代における馬は、交通手段として重要であったために、人間と同様に大切に供養されました。

この石像を建てたのは六十六部とあり、そのあと何文字かは判読できませんが、願主順貞と続きます。おそらく順貞は、この地に関係した人物であると考えられます。その後、現代にいたるまで地域の人々によって大切に守られてきました。

四ッ又馬頭観音は、安山岩製で高さ六五センチほどです

四ッ又馬頭観音は板橋区の登録有形文化財になっています。

 



川越街道の旧街道に入っていきます。道は細い道になります。

大山東町の商店街です。

現在の川越街道は国道254線として春日、茗荷谷、池袋から川越へ向かいますが、旧川越街道は中山道の板橋宿の平尾追分から大山を通り、板橋中央陸橋、そして上板橋二丁目のバス停近くから地下鉄下赤塚付近までの区間は旧道が残っています。



ということで、旧道を歩きます。上のほうには「大山遊座」と書かれています。

ここから大山駅や大山ハッピーロードへ向かいます。

途中、子易神社から延びる道を越え、大山駅の踏切へ行きます。その先がハッピーロードです。


ハッピーロードの中にあるという旧橋は分からないままでした。商店街をゆるやかに左に曲がるあたりにあると言われています。そのあたりと思われる場所がちょうど工事中だったのです。


大山お福地蔵のお堂へ

ハッピーロードを抜けて現在の川越街道に出た先をすぐに右手に曲がると、大山お福地蔵があります。

窓からお地蔵様の横顔が見えるお堂です。

 



こちらは、お身洗地蔵尊です。お堂の前に立っていました。

きれいになっていたので、地域の方々に守られてきているようでした。



行く先を示す看板を見たときは、これほど立派なお堂とは思わなかったです。



ほぼお寺並みのお堂ですね。ただ敷地が道に沿って細長くなっているだけで。

この地におふくさんと言われる行者が文化文政の頃に鎌倉街道からやってきて街道筋の人々の難病苦業を癒やし大山宿の人々から慕われていたそうです。

それでついにここ大山の地に住み、余生を衆生につくしたことから大山の人々によって「おふく地蔵」としてまつられたそうです。

 



源平しだれ桃の木がありました。春になれば、白とピンクのしだれ桃の花がきれいに咲いていることでしょう。

 

ここからまた今の254線に戻って少し歩くとまた旧道に戻ります。

下頭橋通り(旧川越街道)と書かれています。

ここからが、上板橋宿となります。

上板橋宿は下宿、中宿、上宿と並んでいます。

ちなみに『秩父順礼独案内』には、「上板橋」となっていて、これまた私が判読できる範囲でいうと、日本橋より二里、馬つき問屋ありで、ねりまへ廿六町とのこと。3キロメートルほどってことですね。

あっさりとした書き方です。他の宿場の間はけっこう距離がありますが、ここは比較的すぐに次の宿場についてしまいます。

ちなみに『秩父順礼独案内』は、けっこう力を入れ書いてるなと思う部分と、あっさりしすぎでは?と思う部分があります。

この話はいいから、もっとこちらの説明いれてくれ、といいたくなる部分も。


上板橋宿から轡神社へ寄り道

ここは防災公園で、ここを曲がって、轡神社に立ち寄ります。なんでも徳川家康が立ち寄った神社なのだとか。

それにしてもこの公園は古い井戸のような場所ですね。「辻のいずみ」となっていました。

昔は湧き水でもあったのかしら。



こちらが轡(くつわ)神社です。もともとは、轡権現社と言われた神社です。

この前の道が鎌倉街道なのだそうです。

この道が続く石神井川を越えるあたりが本来の「板橋」という説もあるのだとか。

鎌倉街道を通り、古くは目印になる橋がかかっていたのでしょう。

この轡神社は、徳川家康が巡視の途中にこのあたりで休憩して家康公の乗っていた馬のくつわを祀ったとも、馬蹄を祀ったとも言われる神社です。

 



江戸時代から百日咳に霊験あらたかな神様として知られていたそうです。

遠方からも参拝に来たそうで、病気が治ることを祈るとともに、神社に奉納されている馬のわらじの片方と麻を持ち帰り、全快したら、新しいわらじと麻を奉納するという風習があったそうです。



たしかに、拝殿前には、わらじがかけてありました。

今では小さな神社なので目立ちませんが、江戸時代は遠方からも来ていたのですね。

寄り道から戻りまして、また旧川越街道を歩きます。


豊敬稲荷神社も道沿いに

こちらが豊敬稲荷神社です。上板橋宿の馬つぎがあった場所ともいわれています。

この付近が上板橋宿の中ほどになりまして、中宿ですね。






この神社に旧上板橋宿という看板が立っていました。

川越街道には中山道の脇街道ということも書いてあります。信州や越後にも通じていたことは、後に秩父札所の道しるべ石に書いてあることからもわかります。

ここに書いてあるとおり、川越口(下頭橋)から上・中・下にわかれ、長さが六丁四十間(約730メートル)、道幅は三間(約5.5メートル)ということです。

上板橋宿には名主屋敷という屋敷もあって、副戸長の榎本家には、今でも石碑が残されていることも書いてありました。

町場(宿)と村方とあって、村は後方支援でしょうか。人馬が提供されていたとのこと。村にあたる範囲が小竹や江古田ですから西武線沿線ですね。

そうなると東上線沿線に近いほうが町だったということでしょう。

ちなみに、この『秩父順礼独案内』にも小川町とか書かれていますが、今の町名の小川町というよりも小川宿、という意味だったのだろうなと思います。


上板橋唯一の寺院が萬福寺

この豊敬稲荷神社の向かい側を裏手入ると上板橋宿に唯一のお寺さんだった、万福寺があります。

補陀洛山万福寺は上板橋唯一の寺として知られています。

 



開山の時期は不明とのことですが、開山の法印覚雲が慶安四年にお亡くなりになっていることからも、それより前だとわかります。

川越藩主松平信綱によって川越街道は寛永年間に整備されていることからも、寛永年間にはこの地にあったのでしょうね。

私も行ったことのある中野区の宝仙寺の末寺になっていたのだとか。

宝仙寺は、御府内八十八ヶ所でも、関東三十六不動尊霊場としても行きました。

しかし無住の時が長かったようです。旅僧の仮宿にもなっていたそうです。それでも雨風がしのげればよかったのかも。

 

 



古い庚申塔があるとのことで、これがその庚申塔かと思っていたら、一番古いのは、山門のすぐ近くにあるものだったみたいです。

境内にある元文五年の庚申塔には、江戸時代まで使われていた地名である「海老山」が刻まれているとのこと。

 



こちらの写真の右端に、かろうじて写っています。

この右端が古い庚申塔だったようです。だからあまりよく見ていません。



大正時代の説教強盗で知られる三春屋さんです。

古い時代の建物を残してくれています。



米穀商のお店だとか。

こういう建物が時々見つかるのが川越街道です。





その三春屋さんのある交差点近くには、日本橋から二里二十五町三十三間の札が立っていました。

屋根に「弥生田丁」と書かれた鳶職の方のお店のようです。

さらにまっすぐ歩いていきますと、ゆるやかに左にカーブした道にそっていきます。


下頭橋の名前の由来は諸説あり

石神井川の手前に下頭橋六蔵祠があります。

 

旧川越街道が、石神井川を越えるために架けられた橋です。欄干は、擬宝珠が付いた擬木で出来ており、かつて木橋であったことを思いおこさせます。現在の橋は昭和54年に造られました。
橋のすぐそばにはお稲荷さんがあります

板橋区の説明では、地蔵菩薩は、お稲荷さんのこと?

提灯には「六地蔵菩薩」と書いてあります。



説明書きによると、

「弥生町を横断する道が旧川越街道で大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある『他力善根供養』の石碑もその時に建てられたもの」



これが下頭橋です。

げとうばしです。

下頭というのは、旅の僧が地面に榎の杖を地面に突き刺してそれが芽吹いて逆さ榎になったからとも、川越藩主が出府の時、江戸の家臣が頭を下げて出迎えたからとも、橋のたもとで旅人から喜捨を受けた六蔵のお金を元に石橋に架け替えられたからなのだとかという諸説ありの下頭橋です。

六蔵という僧が頭を下げつづけて喜捨を得た、という説が、この六蔵祠もあることから私としては支持したいですね。

秩父への巡礼さんも多かったと思いますし。


ところで、下頭橋を渡るとすぐに左に行きます。左斜めの道がそうです。

私は間違ってまっすぐ行ってしまって、引き返しました。ここはゆるいカーブが連続する道です。

正しい道には、このように旧川越街道と書いてあります。




しばらくすると大通りにでます。現在の川越街道です。

板橋中央陸橋交差点です。川越街道と環七通りが交差する交通量が多い場所です。

その交差点には、長命寺があります。

東光山医王院長命寺。名前からして、薬師如来をおまつりする寺院だとわかります。

旧川越街道から来ると斜め向かいにあります。

 



『新編武蔵風土記稿』にも載っている長命寺は、裏にある上板橋小学校も含んだ大きな敷地をもつ寺院だったようです。

現存する過去帳も1652年のものだそうで、江戸時代前期には建てられていたとみられています。

付近にある天祖神社や氷川神社の別当だったようです。

明治時代には、豊島八十八霊場の札所21番になっていて、いたばし七福神の福禄寿も祀られているそうです。



しばらくは今の川越街道、国道254線を歩きます。

途中で上板橋一丁目バス停や薬局があるところから脇道へ入ります。

ガッカラ坂と呼ばれるところを通りますが、ここでまた寄り道を。

武蔵野銀行の前に五本けやきと呼ばれる場所があります。

ここで曲がろうとする車が止まっているので、すぐにわかります。



そこまで行くまでも川越街道には、欅の並木道ですが、ここは五本まとめて中央分離帯に立っているのです。

沿道ではなく、中央です。「五本けやき」の看板がみえます。

このけやきは上板橋村長の屋敷林の一部だったそうです。川越街道を新しくするため、これらの木は切り倒される予定だったのが、残してほしいとのことで、ここに残ったそうです。

昭和十三年から十四年の頃のことだそうです。

私も小さい頃父から聞いたことがありました。

隣には旧川越街道がありますから、ここ一帯は住宅地だったのでしょう。

それを交通のために整備して新しい道にして新川越街道になったのです。


元の旧川越街道に戻ります。

上板橋一丁目バス停から脇道に入り、旧川越街道を歩きます。

上板南口銀座という商店街になります。



商店街なのですが、こちらにもところどころ大きな木が残っています。

どれも、けやきなのかな。


しばらく商店街を歩いていくと、川越街道、下練馬宿の垂れ幕がみえます。

ここからは、練馬区に入ります。

入ったらすぐに練馬区で唯一の宿場として説明書きが見えました。



こういうの読むと、練馬区はこの下練馬宿を大切に保存しているのだとわかります。

ここは、下練馬宿の下宿と呼ばれていた場所です。いつもの通り上・中・下の宿ですね。

屋号で呼び合っていたとのこと。

 



ちなみに『秩父順礼独案内』には、「ねりま宿」となっているだけで、宿場の説明は省略でしたが、白子町へ一里十町であると書かれていました。

そのかわり、赤塚の説明が書かれていて、赤塚というところに松月院として古い禅林があるということが書かれていました。

これまた私が判読できる範囲で書きますと。松月院は御朱印地常会であると。さらに千葉の古墳あり、と書いてありました。

この松月院と千葉の古墳とは何かは、別の記事に書きたいと思います。

松月院には、千葉氏のお墓があることと旧の松月院は古墳の上に立っていたからかと思っています。

そのほか、吹上観音も『秩父順礼独案内』に書かれていましたので、そちらも別記事に書くつもりです。



下練馬宿では、ずっとこの下練馬宿にあったのだろうなと思うようなお店が並びます。

 


古くからあるだろうお店のそばに立っている木も街道の欅ではないかと思います。

この先の薬屋さんのところを右に曲がると、十字路の真ん中に、馬頭観音の像が祀られている祠があるそうなのですが、私は見忘れてしまいました。

川越街道から少し奥まったところまで行くようです。機会があったら見てみたいと思います。

環八通りが下を通るところまでやってきました。

こちらは、街道のところにあるので、すぐにわかります。

下練馬の大山道道標と、東高野山道標です。

2つとも、場所を移動して現在の場所にあるそうです。

従是大山道とか、天下泰平とか國土安全とか、書いてあるのがみえます。不動明王は後の時代に付け加えられたようです。

ただ、もう一つの大山道です。富士山へ行く代わりとしての大山への旅なのでしょうか。

ここから相模の大山、大山阿夫利神社のところまではかなり遠いと思うのですが。。。



移転前は相模の大山への道しるべとして、そして東高野山への道しるべとして、東南東の向きに置かれていたそうです。

現在は見やすい方向で置いてあるのですね。

大山への道はいくつか行き方があるみたいです。

他にも川越街道沿いに大山の文字が出てきます。



下練馬の大山道道標は、以下のような説明がありました。

旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦三年八月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王は後に制作されたものです。江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。

武蔵?豊嶋郡下練馬村とみえます。講中の文字が刻まれているのがわかります。



年代は宝暦なのでしょう。



東高野山の道しるべは、

「左東高野山道」と刻まれた角柱は高野台三丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。

ここから東高野山は高野山へ行く代わりとして江戸の人々が参拝したのはなんとなくわかります。

私は、長命寺は武蔵野三十三観音霊場の札所1番として、そして御府内八十八ヶ所として何度か参拝したことがあります。

確かにかなり広いですし、高野山の写し的な場所(奥の院のような場所)もありました。

 


浅間神社のところに川越街道の説明書き

練馬北町郵便局を越えると、浅間神社が見えてきます。ここらあたりは、下練馬宿の中宿になります。

浅間神社と富士塚が見えます。

その隣は天祖神社とのことです。



富士塚神社と書いてありますね。

下には、旧川越街道の石碑がありました。

ここ一帯は、かなり興味深い場所でした。

富士塚があることからも十分に興味を引いたのですが、それだけではありませんでした。





練馬区の指定有形民俗文化財になっている下練馬の富士塚です。

ゆっくり登っていると時間をとってしまうので、少しだけ登ってみました。

先程の大山への道標といい、富士山信仰が篤かったのでしょうか。

富士浅間神社の霊山として篤く崇敬され今に及んでいる。明治の前に1回、明治に第二回目、昭和二年に三回目の築造によって今のような形になっているそうです。

それでも十分古いですよね。

大きな建物に見えますが、隣は、あくまでも境内社であり、天祖神社と神明社だそうです。



ということで、ここでは、山頂にある本殿が重要なのです。

そこから富士山に向かって遥拝です。



こちらが富士塚の一合目です。ユニークな彫刻がありました。猿田彦の神様かな?


神明山観音院清性寺と白狐霊石のある稲荷社

この浅間神社の裏手に行きますと、なんと、お寺です。

神明山観音院清性寺です。これぞ神仏混淆ですね。

浅間神社の境内社には、神明神社と書いてありましたが、この山号、神明山とも関係あるのでしょうか。

稲荷社と隣り合わせです。向かって右が稲荷社の白狐稲荷です。



こちらはお寺としてお参りです。お経を唱えるべきなのか。

この清性寺と白狐稲荷とご縁ができて本当に嬉しいものです。

街道歩きをしなければ、一生知ることもなかった。これぞ街道歩きの楽しみです。



葉書の木である多羅葉樹の隣には、お墓や石仏があるので、やはりお寺ですね。

清性寺は、小さいですが、江戸時代初期からある寺院だったようです。

『新編武蔵風土記稿』にも記載されているそうですから。ご本尊は不動明王だったようですね。

歴代の住職もかなりの高僧だったようです。

招魂墓はあったのですが、招魂碑はよくわからないのですが、その招魂碑には、千川上水の開墾者千川家の前ほか阿弥陀塔有力者の名前があって、この近くにある阿弥陀堂との関係の深さがわかるようでした。

さらには、阿弥陀堂の釣鐘には、「清性寺持」と書かれていたとのことなので、阿弥陀堂と清性寺は一体ではないかと思われているようです。

 


白狐稲荷霊石と清性寺

ここに書いてある説明を読めば読むほど歴史あるお寺だとわかります。

住職の墓などに刻まれている年代をみたら、江戸時代初期にあったことはまちがいないみたいですね。

ご本尊の不動明王についても、火事で全体が焼けて手がないとは言うものの、現存しているわけですし、これほど古い木像は北町には存在せず、とあります。

『下練馬絵図』も見てみたいものです。どれほど立派な寺院だったのか。

なんだか富士塚や浅間神社の陰に隠れてしまって、知る人ぞ知るの存在になってしまっていないかと思います。

無住の寺院にしておくのは、なんだかもったいないですね。



稲荷社をのぞいてみたら、なるほど白い狐が石に浮かんでいるように見えました。徳丸の斎藤家というのは有力者だったのでしょうか。

これぞ霊石です。

斎藤家によると、豊臣秀吉の守り神だったが、豊臣秀頼から石田三成に渡されたもので、関ヶ原合戦で敗れた石田三成が越後に逃げる時に泊まった宿に預けて置いていったため、捕まって死罪になったそうです。なんということでしょう~

この霊石を離さずに持って逃げていたら、難を逃れただろうと。

この宿の災難除けになっていたということです。斎藤家は、その宿の子孫にあたる家なのだとか。


 

浅間神社の入口には、「旧川越街道」の説明書きがありました。

 

この道は戦国時代の太田道灌のが河越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ自由様な役割を果たす道でした。江戸時代は中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藩の宣伝にも一役かいました。

下練馬宿は、「川越道中ノ馬次二シテ、上板橋村へ二十六丁、下白子ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」

ここからもわかるように、川越街道としてだけでなく大山詣でとしての宿場でもあったのですね。

 

川越寄りを上宿、中宿、下宿というのは、ほかでも同じですね。

 

「上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています」

これは、私が現在、参考にしている『秩父順礼独案内』にも吹上観音のことは書かれていましたから、ここまで来たら、やはり吹上観音に詣でるということは当たり前のようにしてあったのでしょう。

「通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などはありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました」

なんと、ここに「秩父巡礼」の文字が入っています!最後に書かれているところから、メインではなかったのかもしれませんが。


阿弥陀堂へも行ってみた

先程の清性寺の説明にも書かれていましたが、清性寺と関係の深い阿弥陀堂へ行きました。

こちらには、先程も出てきた千川上水の開墾者である千川家墓所もあるようです。

私費を投じて玉川上水から分水された水道で、千川上水をつくったわけです。このことについては、板橋駅近くにあった盛り上がった場所、平尾の一里塚跡付近のところでも書きました。

ここの阿弥陀堂に、清性寺のことが書いてあって、廃寺となった書いてありました。金乗院と合併とのこと。

金乗院阿弥陀堂と書いてあったので、この阿弥陀堂と合併なのでしょう。住職に高僧がなっていたという清性寺ですが、立場が逆転したのかもしれません。

阿弥陀堂の本堂の半鐘は天保十四年のものだそうです。やはり銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と刻まれているようです。



お地蔵様はずらっと並んでいますし、お墓もあることから、無住のお寺ではないのでしょうが、静かすぎて人の気配がしないのです。

ここには、初代徳兵衛からの七代まで千川家のお墓があるそうです。千川家は、幕府から苗字帯刀を許されたのも千川上水をつくったからですね。



これに吊り下がっている鐘が、阿弥陀堂の半鐘でしょうか。

さすがに縁台に乗ってまで鐘を見ることはためらったので、「清性寺持」と書いてあるのか確認していません。


石観音とも、北町観音ともよばれる

東武練馬駅をすぎると、この北町観音堂(石観音)が見えます。

聖観音座像がありますが、正観世音菩薩の文字になっていました。

ここの石観音から吹上観音に行く道もあったと先程の説明書きにもありました。

もう少し歩くと、17号があるからその道のことでしょうか。



小さいながらも敷地を有効活用しています。

仁王様も小ぶりのタイプです。しかし年代ものの様子ですね。聖観音座像の翌年に作られたそうです。


仁王様をみていて感じたのですが、像は古いのですが、建物がどれも新しいですね。

仁王様は、練馬区登録文化財です。



奥には、本堂と呼ぶのか、観音堂と呼ぶのか。

まっすぐ前は聖観音菩薩の座像です。

聖観音座像は、練馬区の指定有形民俗文化財になっていました。

練馬区内最大の石仏だそうです。

高さ270センチメートル、背には、「武州川越多賀町」の文字や天和二年八月の文字が入っているとのこと。

台座には、二十九の地名が入っているというのは、どういうことなのでしょうか。



向かって左は、馬頭観音の像です。

江戸時代のものだろうと推測されている馬頭観音像ですが、こちらは指定でも登録文化財とも書かれていませんでした。


 

すでに北町観音堂のことは、小石川の僧が書いた紀行文『遊歴雑記』にも文化十二年にこの場所を訪れたという記載があることから、ここの石観音で、赤塚村への分岐の目印にもなっていたようです。

 



川越街道の説明がまたありました。

その下には、これまた歴史を感じる石仏群です。庚申塚(三猿がみえる)、馬頭観世音と書いてある石碑もあります。

室町時代の太田道灌の頃から川越街道はあったとのことです。
秩父札所の成立も室町時代にはあったといわれます。

今でこそ、江戸時代には江戸からの秩父巡礼が多かったといわれますが、もしかしたら、もっと前からも行っていたのかもしれませんね。

このようにして、道が二股になっているような場所を利用してこの北町観音堂はありました。


先程の説明書きにもありましたが、川越藩主は泊まることはなかったのですが、本陣があって、それがここ本陣跡地になります。

それを練馬区が緑地公園にしているようです。



北町には、五代将軍綱吉が右馬頭であったころ、御殿を構えて、一時期療養していたといわれているそうです。

その時に、大根を栽培させて、江戸に帰城した後も大根を献上させたのだとか。

練馬大根の誕生秘話には、将軍綱吉説と、ほかにも説があるそうですよ。

 



ここにも書いてあるように、北町二丁目あたりが、下練馬宿のなかでも上宿になります。

ここをすぎると、商店街もまばらになり、江戸時代の頃は農村風景が広がる場所だったのだろうなと思われるようになってきます。

 



川越街道とは関係ないのですが、川越街道の途中には、「私立相原小学校」跡地の説明もありました。

「私立」とあったので、えっと思って写真に撮った次第。

嘉永五年に下練馬村、今の北町三丁目に塾を開いていたということです。

明治二十年代には私学が廃校していくなかで、区内で最後まで残っていたのが下練馬の相原小学校だったのだそうです。


地下鉄下赤塚近くの庚申塚

地下鉄赤塚駅の出口まえに庚申塚がありました。

右、川越と書いてあるのか?左は何でしょう。くずし字が読めません。

どちらにせよ、道標ですね。



明治十四年の石碑です。

ここから先はしばらく今の川越街道、国道254線を歩くことになります。



この地下鉄下赤塚駅のそばには、本郷から13キロの文字がありました。

私が今まで書いた『秩父順礼独案内』でも本郷森川宿からスタートでした。

ちなみに中山道スタートとして有名な日本橋からは、16.5?キロですか。



小治兵衛窪庚申尊

下赤塚交番の近くにこのような庚申塔がありました。

小治兵衛窪庚申尊となっています。

青面金剛像の座っている下には三猿です。





 

後ろに庚申塔の説明がありました。

 

庚申塔

庚申(かのえさる)の日に近隣の人々が集まり、豊作や健康を祈る行事を庚申待と言う。

この供養のために建てたのが庚申塔である。この塔の正面には六手を持った青面金剛が陽刻してある。

手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指して、三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には、武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明三癸卯(みずのとう)年二月吉日と刻んである。庚申様は道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。

このあたりは「小次兵衛久保」という地名で呼ばれていた。

また、「橋を作ってくれた盗賊小次兵衛」の民話が残っている。

この民話とともに古くから残っている庚申塔は一度は松月院に永代供養を依頼した時期もあったが、成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。

成増南町会の説明があります。

ただし、窪の字が「久保」となり、小治兵衛の文字が「次」になっています。

 

新田宿の八坂神社とお向かいにお地蔵様など新田坂の石造物

成増駅の前を通って新田坂まで行きました。ここでまた、今の川越街道と分かれて脇道へ入ります。

またもや説明書きがありました。

平尾の追分で分かれて、上板橋宿、下練馬宿を経て、やっと埼玉県の和光市にある白子宿です。

ここにも書いてあるように八坂神社の右が旧川越街道です。

白子川へ下る坂、新田坂と呼ばれていたところです。

新田坂から白子川までの集落を新田宿と言ったそうです。

川を越えた先が白子宿ですから、そこから続く集落だったのです。

昭和初期には、小間物屋、魚屋、造り酒屋があったということですから、にぎやかな商店街だったのですね。



八坂神社の手前には道祖神です。移転する前にも入口付近には道祖神の石碑があったそうです。

この八坂神社は、京都の八坂神社を勧請した神社で「天王さま」とも呼ばれているとか。

今は、疫病退散で有名な八坂神社です。素戔鳴尊と稲田姫命が御祭神です。

現在地よりももっと南にあった神社だそうです。

 



新田坂で八坂神社とお向かいになっているのが、お地蔵様や稲荷社の石仏群四基です。

国道を新しくして拡張工事をした時に集めたのでしょう。



神社の前にもありましたが、こちらはもっと大きい双体道祖神です。

今の川越街道が見える先に八坂神社の幟旗が見えます。

新田坂道祖神等石造物記念碑が立っていました。



その石造物ですが、まずはお地蔵様です。





道祖神と書かれた石碑と、稲荷社の祠、ちゃんと狐が守っています。

大天狗、小天狗と書かれた常夜燈もあります。大山と書かれて常夜燈は、川越街道には他にもあります。

先程の記念碑のそばにあった双体道祖神ではなく、奥に見える道祖神の石碑が板橋区の有形文化財になっているものです。

 

道祖神は区内唯一のもので、文久三年に建立されました。もともとは、八坂神社の入口付近にありました。

常夜燈は、文政十三年のもので、成増一丁目34番地の角に立っていました。大山と刻まれていることから道標も兼ねていたのでしょう。川越街道と分かれて南向かう土支田方面通じていました。

稲荷の石祠と丸彫りの地蔵の造立年代は不明ですが、どちらも大切に保存されいました。



新田坂下からさらに歩くと白子橋が見えてきます。白子川はもうすぐです。

新田坂と白子橋の間には、たばこ屋さんがあって、それも歴史を感じるような建物でした。


白子川と白子橋

清水かつらの住んでいた白子ということで、白子橋(しらこばし)には、「靴が鳴る」の歌詞が書かれていました。

ここからは、埼玉県に入っていきます。やっと秩父のある埼玉県です。まだまだ先は長いです。

江戸時代の巡礼さんは、ここまで来て何を思ったのでしょうか。