港区での江戸33観音めぐりが続いています。

江戸33観音めぐりでは、他の巡礼にありがちな、旗が外に立て掛けてあったりするわけではなく、木札などに書いてあるだけということが多いです。

ここ金地院は、そとの石柱にくっきりと書いてくれていますので、間違えることもありません。

金地禅院と書いてあるので、禅寺だということもわかります。臨済宗ですね。

とにかく東京タワーを目印にしていけばいいくらい、東京タワーの近くにあります。

 

東京港区芝公園の金地院

金地禅林、世外勝境と書かれた石の柱です。

金地院の山号は、勝林山ですから、それに因んだような四字熟語なのでしょう。

その後ろには、変わった形のお寺、本堂があります。八角形の建物の上に、また、帽子のように乗っている2階建て構造のような本堂です。

その上には、針金(?)で作られたようなこれまた不思議な宝珠のようなものも乗っています。

禅寺というイメージからはかけ離れた感じの建物でしたが、面白い形ですよね。

私は気に入りました。

さて東京タワー近くのお寺というとわかるように、場所的には増上寺も一緒にめぐりたかったのですが、そこまで行けずにあえなく時間切れです。

この金地院も5時ぎりぎりでした。

本来なら、もっと早くに入るべきでしたね。

お寺の方はそれでも中に入れてくださいまして、丁寧に対応していただきました。

本当に優しい人柄で、感謝です。

 

南禅寺大本山東京出張所でもある

こちらに来るまでまったく知らなかったのですが、南禅寺の東京出張所なのですね。
京都にある臨済宗の大本山であるあの、南禅寺です。

すべての禅寺の中でも高い格式を持つといわれる南禅寺が、東京出張所があって、それが金地院だったとは。

江戸33観音めぐりをするまで知らなかったことが多いです。

 

きれいなお庭で春に訪れるといいかも

整備も行き届いて、きれいなお寺です。五重の塔?六重の塔にも見えます。

そもそも東京タワーの麓にこのような都会のオアシス的なお寺があったことも驚きです。

江戸三十三観音めぐりをしなければ、まったく知らないままでいましたよ。

それにしても、まわりはビルばかりですね。

このようなきれいなお庭があるのが奇跡のように感じるくらいです。

私がお詣りに行ったのは、まだ寒い時期だったので、春の花が咲く時期だったらもっとお庭も見応えあったのだろうなと想像できます。

それでも梅の花などありまして、お花を絶やさないようにしているみたいですね。

 

子育て観音なのか、赤ちゃんと一緒の観音様の像がありました。水子観音だったのかもしれません。

葉牡丹やら、パンジーやらお花はありました。
ただ、時期がまだ寒い時期でしたから。手入れが行き届いて気持ちがいいです。

手前には、苔らしきものも見えますが、何しろまだまだ寒い時期でしたから、このお庭の良さが出ていないのかもしれません。

春以降なら、おそらくもっと緑がみえるお庭だと感じます。

本堂の下のほうには、石仏なのか、お地蔵さまなのか。

金地院は、二代将軍、徳川秀忠公から寺域をいただいたという由緒あるお寺です。

そもそもは、江戸城内の北の丸付近で創建されたそうですが、寛永16年に三代将軍、家光公により現在の場所に移ったそうです。

どうも開創の本光国師がおなくなりになったとして、その地から追い出されたようなのですが、真相はどうなのでしょうか。

 

開山の本光国師(以心崇伝)は南禅寺の中興開山と呼ばれていた人物です。江戸幕府の草創期を補佐した人物でもあります。

それだからか、旧本堂は将軍家御祈祷殿として、使われていて将軍家に何か事あるごとにここで、祈祷がなされていたとか。

徳川幕府、将軍家とのつながりは、寛永寺の天海大僧正が有名ですが、こちらもこちらでそれなりにつながりがあったようですね。

そのうえ、大名の菩提寺として知られるお寺だったそうですよ。

ご本尊は、聖観音菩薩ですが、旧本堂には、木彫等身の如意輪観音像があったそうです。しかし、東京大空襲で如意輪観音像は焼失したのだとか。

東京にあるお寺は、関東大震災だとか、東京大空襲だとか、何度も火災の危険にさらされていたようですね。

ずっとあるというほうがまれなのかもしれません。

ということで、この金地院も火災にあって、全焼してしまったのでした。

 

昭和31年再建のお堂に聖観音菩薩像

私が行った時は、時間がぎりぎりだったので、すでに閉まっていたお堂です。

鎮守堂というのだとか。

こちらとは、別に閻魔大王のお堂があるらしいのですが、そちらはどこにあったのか。

お庭の奥のほうまで行かなかったので、そちらにあったのかもしれません。

それとお庭の奥には、大名のお墓もあったようです。

本堂の中で参拝できました。

本堂には、涅槃図が掲げられていました。

貘のような動物もみえます。

本来なら、徳川幕府に影響力を持っていた高僧なので、寛永寺のようになっていてもおかしくないのですが、お坊さんの世界も権力闘争なのでしょうね。

特に、政治的権力とのつながりがありましたから、浮き沈みもあったのかもしれません。

もっと広い敷地や本堂をもつお寺だったようなのですが、そもそも東京大空襲前の様子がわかりません。

 

今では、東京タワー近くのお寺といったら、増上寺のほうが有名ですし。

 

東京タワー通りの道路に面している

金地院境という文字が見えます。

ここからが敷地、境内ということでしょうね。

そもそも、東京タワーの麓に金地院があるというよりは、東京タワーに金地院の敷地を分けてあげたというのが真相のようです。

それにしても周りはビルばかりです。ビルの谷間にあるお寺、となっています。

【その後の追記】

こちらの金地院は、世が世なら、東京タワーは金地院だったのでは、ということを書きました。

幕府と縁が深かった金地院の高僧

将軍家ともつながりがあったということで、大名のお墓もある、大名の菩提寺とのことだったのですが、残念ながら、墓地のほうには行っていませんでした。

さすがに、墓地見学する気にはなれないので。

私の場合、お寺めぐりはしても墓地のほうにまで行ってみることはほとんどありません。

よほど歴史的なものがない限りは。

今回、東京タワーに行くことがありましたので、その時に通りのほうから墓地のあるほうを外から写真を撮ってみました。

このうちのいくつは、大名のお墓なのかもしれませんね。

それと東京タワーからの光景です。上からの光景をみて、かなり広いのに驚きました。

東京タワーの展望デッキからの写真とわかるように東京タワーの脚の部分も入れて撮りました。

こういう時に、あの独特な八角形のお堂があるとわかりやすいですね。

2階建てのような八角形のお堂と、その上にあった独特な宝珠も見えました。

芝学園と書いてあるビルの前までお墓の土地が広がっていました。

思ったよりも広かったのですね。

江戸幕府、それも初期の3代将軍家光の頃に今の場所に移ったと聞きますから、その移転したころは、どれくらい広かったのか。

 

あのきれいなお庭もわかります。

東京タワーの土地も本来なら金地院の土地だったのでしょうね。

幕府と縁が深い高僧がいたわけですから、寛永寺の広さくらいあってもおかしくありません。

八角形のお堂と、隣の建物だけ見ていると、こじんまりとしたお寺だなで終わりそうですが、南禅寺大本山東京出張所と書かれた札があるように、知る人ぞ知るのお寺なのでしょうね。

今回、江戸三十三観音めぐりをしなければ、一生知ることもなかったと思います。

禅寺だけあって、質素な感じもしまして、旗が何本もたっているような目立つところもありません。

江戸三十三観音に選ばれるくらいのお寺ですから、「能ある鷹は爪を隠す」ではないですが、実はすごいお寺なのだと知るご縁ができて本当によかったです。

私が時間ぎりぎりに行ってもイヤな顔もせず、どうぞ観音様にお参りをとおっしゃっていただいた奥様にも感謝したいと再度思いました。