前回は、杉並区でただ一つの江戸33観音めぐりの札所となるお寺でしたが、今回は、中野区です。
中野区にある宝福寺も、江戸33観音では中野区代表といえる、唯一のお寺になります。
またもや今回も裏門と思われる場所から入りました。
表参道と思われる門へは、参道が思ったよりも長かったです。
寶福寺と書いてある額がかかっているお堂にて、観音様のお詣り
中に入っていきますと、本堂がありまして、その前に、「観音様のお参りはこちらへどうぞ」の札がありました。
お寺としてのご本尊は違うのかもしれませんが、本堂の脇に観音様のお参りできる場所があります。
観音様は、如意輪観自在菩薩です。
行ってみれば、すぐにわかるのですが、本堂に向かって右側にお参りできるようになっているところがあるのです。
こちらが表参道と思われるほうの門です。
ここからお堂全体をみるとわかるのですが、ちょうど木がありまして、わかりにくかったですね。
本堂の右手です。
本堂の正面にもお賽銭箱があるので、そちらと勘違いしてしまうかもしれませんが、右手です。
宝福寺は、歴史がかなり古いようで、聖徳太子が諸国を巡遊したときに遡ります。
ここを霊地としてお堂を建立して、如意輪観音像を奉安したというところから始まります。
このような梵鐘とお賽銭箱が右手にあります。
そちらが如意輪観自在菩薩像があるスペースなので、観音様めぐりの人は、こちらで参拝です。
聖武天皇のときに信行大僧都がこの地を訪れ、これまた霊感によって上宮聖徳太子孝養の像を刻んでお祀りしたと伝えられています。
その後は、だれも僧侶がいなくなり、上宮聖徳太子孝養ということから、その名にちなむ「上の山」という地名だけが残ったそうです。
「上ノ山」という地名でしょうか。
となりますと、宝福寺のご本尊は、聖徳太子ということになりますね。
新築のお堂があった。観音堂の改築中か
私が参拝に行ったときには、新築のお堂がありまして、まだ工事中でした。
もしかしたら、こちらが観音堂になるのかなと思いました。
工事中だったためか、本堂のところには、お寺の飾りのようなものが置いてありました。
もし、今お寺に行ったら、雰囲気が変わっているのかもしれません。
ほかにも、石柱があったりしまして、工事中であることがわかります。
その後ろには、お地蔵さまも見えますね。
聖徳太子だとか、聖武天皇だとか、かなり昔の話ばかりでしたが、その後が僧侶がいなくなってしまったということですからしばらくはお寺としてではなかったのでしょう。
寛元のときに、守海上人が来て、お堂を改修したそうです。
守海上人が中興の祖といえるのでしょう。中興第一世と言われたそうです。
正徳年間第十六世栄雅大僧都が本堂を改築して法流を開基して、門前に石地蔵を造立したそうです。
上の写真がそのお地蔵さまなのかしら。
ご本尊は、聖徳太子なのだそうですが、地域の人からは、中野観音とも呼ばれていたそうです。
筆塚あり中野区の初等教育がわかる史跡
境内には、筆塚がありました。
戸村直衛が書いたもので、明治に作られたそうです。
戸村塾を開いた人で、中野区最初の公立校、桃園学校でも教えていたという人です。
身分や経歴が不明なのだそうですが、若い頃に数学、書道、洋学を学んだ知識人であったことが伝えられているとのこと。
明治5年に学制が発布されるまで、寺子屋や民間の塾で教えていたのです。
戸村塾にも明治4年に生徒が25人いたそうです。
戸村塾は宝福寺や近くの民家であったようですが、その後桃園学校雑色分校に引き継がれたということです。
この筆塚は、師弟が使った毛筆を納めて供養した塚です。中野区の初等教育を物語るものとなっています。
本堂右手に行きまして、御朱印をいただきました。
本堂の全景を写したときに気がついたのですが、表門の先に参道がありました。
納経所で御朱印をいただいた後に、そちらの表参道のほうを歩いてみました。
表参道のほうへ行ってみると参道が長いことがわかる
椿の花で隠れてしまっていますが、真言宗寶福寺の寺名が入った石碑が見えました。
こうやって下の写真のようにみると参道が長いことがわかります。
手前にみえるのは、毘沙門天かしら。
石仏でしょうか。
参道を出ましたら、すぐ右隣に神社がありました。
神仏習合時代は一緒になっていたのかなと思いましたがどうでしょうね。
多田神社と書かれていて、宝福寺と平行に参道がありました。
八幡様や氷川神社は多くありますが、多田神社というのも珍しい名前の神社です。
神社の由緒が書かれた石碑など新しい感じがしました。
遠くからしか見ていませんが、今考えたら、こちらでも御朱印をいただいておけばよかったかなと思いました。
もし、これから宝福寺に行く予定の人は、神社用の御朱印帳があるのなら、用意しておくといいかもしれません。