今までも何度も書いてきましたが、なぜかいつもGoogle先生にオモテの門ではない場所に連れて行かれる私です。
今回の回向院の訪問も、このとおり、裏門に来ました。

しかし、これもまたスムーズに入るよりもいろんな光景が見られて歩き巡礼の楽しみです。

ここから見えるのは、回向院の鼠小僧の墓の前あたりですね。

白い塔も見えます。

鼠小僧のお墓のことよりもストーンズのロケで知られる回向院


現在、回向院を調べようとしたら、なぜだか出てきたのが、SixTONESのことです。

ジャニーズのアイドルグループがロケで、鼠小僧のお墓に来たそうですよ。

さて、回向院の裏手の門のところからオモテの門を探してまわりをぐるぐる歩いていたら、こういう回向院の正門跡という木札を見つけました。

現在は幼稚園になっているようなのですが、かつては、ここに正門があったということです。

今とは、門の向きが違っていたのですね。

現在は、両国駅からわかりやすい場所にオモテの門があります。

ここにも書いてありますが、東京大空襲で建物が焼けてしまったというのは、都内のお寺さんの場合、よく聞きます。

以前の回向院正門は、JRの電車よりも江戸城から歩いて両国橋を渡ると真正面になるように建てられていたそうです。

これも時代の流れでしょうか。

 

回向院の正式名称は諸宗山無縁寺回向院となっている

やっとオモテの門に到着です。

到着してみたら非常に大きな門で驚きました。仁王像も見えます。

寺標となる石碑にも「諸宗山」と書いてあります。「諸宗山回向院」ですね。



ここから参道になります。

ちなみにこちらの門は、両国駅からまっすぐ前の通りにあります。

こちらの回向院は、俗に「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火で、たくさんの被害者を祀るために建てられたのが最初だと言われています。

昔の江戸は火事と喧嘩は江戸の華といわれるくらいよくあったそうですが、この振袖火事は、江戸の街の大半が焼けたと言われています。

死者が約十万八千人にも上ったというのですから。明暦の大火死屍累々と言われています。

その焼死体を集めて合祀して、冥福を祈るために建てられたのが、ここ回向院だったということです。


回向院と相撲(力塚)

参道を歩いていくと、力塚がありました。

以前の相撲は勧進相撲といわれ、福祉のための資金集めの場だったようです。

明和5年に回向院でも勧進相撲が行われました。その後も勧進相撲といったら、回向院といわれるくらい何度も行われていたそうです。

明治42年に前の両国国技館ができるまで、回向院での勧進相撲が春秋年に2回行われていました。

この力塚は、歴代の相撲力士たちの慰霊のために建てられたそうですが、新弟子が相撲が強くなりますようにと祈願にくる場にもなっているそうです。

両国国技館にも近いですし、ここ一帯が相撲と縁があったのですね。


回向院は庶民のためのお寺

参道には三界万霊の碑がありました。

三界万霊塔ともいいますが、お寺の入口で見かけます。

そもそもは、三界、欲界、色界、無色界の三つを指します。過去、現在、未来とも言われています。

それらの世界にいるすべてのモノの霊をお祀りするところです。

このことからもわかるように、回向院では無数の不幸な遺骨を集めて、平等に冥福を祈るための寺院なのです。万霊供養のためのお寺です。

振袖火事の後も、安政の大地震、大正12年の関東大震災など火事のみならず水害、津波、地震など無数の居事を埋めているそうです。


不動明王が本堂前に


不動明王堂というには、あまりにも小さなお堂なのですが、祠というものでもなく、なんと呼んだらいいのかわかりませんが、不動明王が安置されていました。

本堂のビルの左にありました。

真正面のビルの中に本堂があります。

梵字が書かれていますね。

ビルの中に入ると、ご本尊の阿弥陀如来像がいらっしゃいました。

今はビルになっていますが、以前の回向院は、大師堂があったり、観音堂があったりといろんな伽藍があったそうですが、東京大空襲ですべて焼けてしまったそうです。

 


ご本尊の阿弥陀如来像は、以前は、外に置かれていたそうです。

釜六と呼ばれる、釜屋六右衛門の作だそうです。1705年に安置されてたとのこと。

ご本尊の後ろには、千体地蔵尊と呼ばれる数多くのお地蔵様がいらっしゃいます。

先祖の供養や社運隆昌を祈願して奉納されたお地蔵様です。

ご本尊が安置されている場所の入口には、天女の絵が掲げられていました。


ご本尊が安置されているビルの中には、このような「結願地蔵菩薩」や、観音様、不動明王、大黒様といろんな像が置いてある一画があります。

そこには、一筆写経ができる旨のことが書いてありました。

写経の用紙は、寺務所にてお金を払って受け取ります。

書き終えたら、納経して、そばに置いてある散華をいただくというようになっていました。

「記念品として1枚お取りください」と書いてありました。

大小の大黒天と、かわいいお地蔵様もいましたよ。

 

回向院には数多くの石碑あり

お寺ですが、なぜか、「鳥居」と書かれた石碑も見えます。

うちわであおいでいるような女性の姿が見えます。

 


塩地蔵にはお塩がお供えされていた

塩地蔵のそばにある石碑には、「文政十年丁亥六月創建、安政三年丙辰六月再建」と書かれていました。

手前のあるのが塩地蔵です。

参詣した人々は、願いが叶うとお塩を奉納するのだそうです。



かなり腐食がはげしく、原型がわからなくなりつつあります。

右手に錫杖、左手に宝珠を持っているそうです。

昔の地蔵尊めぐりでは、ここも巡るようになっていたとか。「東都四十八地蔵尊めぐりの第四十七番目」であるとの記載がありました。


鼠小僧次郎吉の墓

時代劇でおなじみの鼠小僧次郎吉の墓です。

ここをSixTONESはロケで紹介したのかな。

金持ちから千両箱を盗んで、長屋に住む貧しい人々に配っていたという鼠小僧次郎吉です。

江戸時代からも、次郎吉のように長年捕まらないという運にあやかろうという人々が訪れていたそうです。

ラッキー、強運にあやかろうということでしょうか。

墓石を削ってお守りにすることが江戸時代から流行っていたそうです。

今では墓石ではなく、御前立ちのほうを削るようになっていました。

白い石のまわりに削るための小さな石がたくさん置いてありました。


中村次良吉之墓と書いてありますね。

墓石の横には、「永代供養金五拾圓也」と書いてあるのが見えます。

鼠小僧次郎吉の墓のすぐ左手には、猫塚がありました。


ペットのための犬猫供養塔もあり

 

回向院では、生きとし生けるものへ平等に供養するということから、ペットの供養塔やお墓もありました。

無縁仏だけでなく、犬、猫、小鳥などにも広がっているということです。

回向院には、明暦の大火の供養塔があったり、水子地蔵や水子塚があったり、さらには、刑囚牢病死者供養塔もあります。

天明三年の浅間山噴火の供養塔や、台湾従軍死の碑、加藤千蔭の墓、竹本義太夫の墓、岩瀬京山、京田の墓など有名な人のお墓もありました。

石碑も多いですし、説明を書いた案内板も数多く設置されていました。


将軍の愛する名馬を葬り馬頭観音像を建立

馬頭観音像が祀られている塔です。

その前には馬の像もありました。

回向院ができて間もない頃に、将軍家綱公の愛馬が死亡し、それを深く哀れんで、その骸を回向院二世信誉貞存上人が厚く葬りました。

その供養をするために馬頭堂を建て、馬頭観世音菩薩像を作ったそうです。



頭上の馬の顔がよく見えませんが馬頭観音像です。

江戸時代からも江戸33観音めぐりの人たちは、この馬頭観音に会いに巡拝したわけです。

享保年中頃から「江戸三十三観音」に数えられていたということです。「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されています。

回向院の馬頭観音を参拝すると、当時最も恐れられた疫病にかからないと言われていたそうです。

いつの世の中も恐れるのは流行り病だったのですね。その後は諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めたそうです。

当時の江戸三十三観音めぐりだけでなく、現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番として存在し続けます。



ここは、多くのお墓が入っているビルのようでした。こちらのビルには入れませんでした。

その前には、猫の像がありました。

ペットの供養塔でもあるようでした。

ご本尊が安置されているビルの隣が寺務所でそこで御朱印をいただく

寺務所の窓口の脇には、「布袋尊」が安置されていましたよ。

七福神めぐりもあるのかしら?よくわかりませんが。布袋尊は、弥勒菩薩の化身だったのですね。優しいお顔です。

 

さて、御朱印ですが、最初に寺務所に立ち寄ってからご本尊や馬頭観音様を参拝するのがいいようです。

先に御朱印帳を預けておき、札をもらっておきます。

参拝している間に御朱印を書いていただけるということです。

 

私は、江戸三十三観音めぐりとしては、観音様の御朱印をいただきました。

それとは別に、回向院のご本尊である阿弥陀如来の御朱印もいただきました。

夏と冬とで違うのですね。

両方ともほしい人は、季節を分けて行く必要があります。

私が参拝したのは、冬でしたので、10月から3月のバージョンです。銀の玉になっていました。

夏の御朱印をいただくには、4月から9月までに行かないといけませんね。こちらは、玉の色が金色のようです。

さて、9月までにもう一度行けるかな。