前回は、成田山川越別院でしたが、今回はそこから歩いて数分のところにある喜多院です。
成田山川越別院よりももっと回数多く行っていたのが喜多院です。今回は、関東三十六不動尊霊場としての御朱印をいただきに参拝です。
喜多院は良源、すなわち、元三大師をお祀りするため、元三、すなわち1月3日の初大師に、だるま市が開かれます。その他、節分や菊まつりも有名です。例年ですと、お花見の場所としても知られています。
川越大師喜多院と書かれた石碑もみえます。
その隣にも喜多院とかいた柱があって三つ葉葵の紋所がみえます。天海大僧正が喜多院の27世の住職ということが関係しているのかもしれませんね。
喜多院の多宝塔
3月なので、桜の花はこれからの時期です。
しかし、古い木は早めに咲くのか、咲いている木もありました。
江戸時代初期の建築物の特徴がよく出ているといわれている多宝塔です。昭和48年に解体修理を行い、復元したそうです。
喜多院で印象的なのは、この多宝塔でしょう。
喜多院の境内にある建物は国の指定重要文化財が多いのですが、こちらの多宝塔は埼玉県の指定重要文化財になっていました。
以前は、日枝神社と山門の間にあった古墳の上に建っていたのですが、移動して今の場所に建てられました。
慈恵堂(潮音殿)にて護摩供が毎日
大師堂は、潮音殿と額が掲げられています。
このお堂に入るとザザーッという海の波の音が聞こえるからだそうです。その音は引き潮のような音だとか。
川越喜多院の七不思議のひとつになっています。
それと、喜多院近くに貝塚があって、大昔には近くまで海だったことがわかっているそうです。
ここで護摩供が行われます。お正月や節分のある2月までは回数も多めですが、それ以降、3月以降は、11時30分と13時30分に行われます。
ここで元三大師のお姿や御守が売っていました。角大師とか豆大師と呼ばれる絵ですね。
角が生えて、肋骨が見えている鬼みたいな姿です。これは元三大師が疫病神を追い払った時の姿なのだとか。
豆大師は、小さな三角形のようなものが並んでいるお札です。三角形は元三大師なのですが。
どちらにせよ、疫病退散、災難除けの御札です。
私は以前、ここで大黒天のお姿を購入したことがあります。
慈眼堂は丘の上にあり天海大僧正を祀る
喜多院には、丘のような場所があります。以前は古墳だった場所だそうです。
この丘への階段を上がっていくと、国指定重要文化財である慈眼堂があります。
慈眼堂は、慈眼大師天海をお祀りするお堂です。
慈眼堂の屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造りと呼ばれるものだそうです。
慈眼堂には厨子に入った天海上人の木像
木像の天海大僧正坐像をお祀りしているからか、開山堂とも呼ばるそうです。
天海大僧正の生前、晩年の姿を木像にしています。
建物自体は、けっこう古いですが、思ったよりも小さめのお堂でした。昭和30年には、部分的に修理も行われたそうです。
小高い丘になっていることがわかるように、慈眼堂から鐘楼門に向けて写真を撮りました。
こちらの桜はまだまだ先のようでした。
大師堂(慈眼堂)や多宝塔に向かって、再度写真を撮りました。
これを見ると、喜多院の全景がつかめるでしょう。
やはり、ここからも多宝塔が目立ちます。
潮音殿と多宝塔の中間あたりにある寺務所にて、御朱印をいただきます。
入場料を払う手前のところです。
御朱印は客殿と書院をむすぶ庫裏(寺務所)の受付にて
江戸城より移築の御殿前、すなわち客殿前には桜の木があります。
客殿と書院、および庫裏が江戸城より移築されたものです。国の指定重要文化財となっています。
こちらの木は老木なのか、既に咲いていました。
こちらが御朱印をいただく寺務所がある場所の入口です。
建物および五百羅漢の拝観受付の場所でもあります。
御朱印がほしいだけの人は、受付の人に言いましょう。
そうすると、御朱印だけなので、窓口付近のみ(建物まで入らない)となりますから、拝観料を払う必要はありません。
もちろん、せっかくなので中まで入って拝観したい人はお金を払っても見るといいでしょう。
私は建物はじっくり見たことがあるのですが、五百羅漢はかなりざっとしか見ていません。
私が行った時点では、拝観料は大人が400円、小学生、中学生が200円でした。
しかし、現在は拝観はしていない模様。
私が行った時点でもいつもよりも短縮された時間でした。
喜多院は川越七福神めぐりで大黒天
本堂、潮音殿向かって右側のすぐ下に大黒天のお堂がありました。
ここをお参りするだけなのなら、階段をのぼる必要がありません。
前回、ブログに書いた成田山川越別院が川越七福神めぐりの恵比寿様で、こちらの喜多院は大黒天のお寺となっています。
お正月とご縁日以外は七福神めぐりとしての絵馬や色紙は完成品になるということが書いてありました。
やはり七福神めぐりは、お正月の松の内、7日までに行ったほうが良さそうです。
海潮音殿に向かって左手には、苦ぬき地蔵尊がみえました。
苦ぬき地蔵尊のまわりには、赤、緑や黄色の旗が立っているので、すぐにわかります。
すべての苦痛、苦しみを抜き取ってくれるお地蔵様です。おそらく病気平癒のためかなと。
巣鴨のお地蔵様みたいに信仰されているようでした。
潮音殿の裏手には、川越城主の松平大和守家廟所があります。
簡単にいえば、お墓ということですね。五人の藩主が眠る墓があるそうです。
石の柵に囲まれた場所に五輪塔が立っています。
その手前の「この奥、夜間通行禁止」と書いた立て札がありまして、それでなくても夜間はなんだか怖そうな場所です。要するに、お墓ですからね。
来たときと違って、鐘楼門の方面にある山門から出ました。
喜多院の中で最古の建物が山門
こちらが、山門前です。こちらには、山号を書いた石碑もありました。「護摩修行」を行っているという立て看板もありました。厄除開運ですね。
喜多院の山号は、星野山といいます。
喜多院にある池のところから、光るものが出て空にあがって明星となったことにちなんで付けらてた山号だそうです。
この山門、実は川越喜多院の中で、最古となる建物だそうです。火災を免れたからという理由です。ほかは一度は焼失したのでしょう。そういえば、山門はかなり歴史を感じるものでした。
山門すぐ前には、天海大僧正の像や天皇陛下やスウェーデン国王陛下が来たことがわかる行幸啓記念碑がありました。
その隣には、白山権現社です。
神社ですね。喜多院と同じ歴史を持つそうで、平安時代から立っている神社なのだそうです。
喜多院に比べたら、地味な存在です。
元は喜多院の境内にあった日枝神社
看板にも書いてあるように、喜多院の山門のお向かいにある日枝神社は、東京都千代田区永田町(赤坂)にある日枝神社の本社にあたります。
小高い丘のような場所(実は、古墳の上)に立っています。
そもそもは喜多院の境内にあったそうなのです。
重要文化財と書いてあるように、本殿の建物が国の指定重要文化財になっています。
国宝日枝神社と書かれた、社標です。この石碑も古そうな気がします。
赤坂にある日枝神社は、太田道灌がここから分祀したのだそうです。赤坂の日枝神社の由緒にも、川越山王社から勧請したということが書いてありました。江戸城を開くため鎮護の神様だったようです。
そもそもは、ここがスタートということなのですが、なぜか赤坂にある日枝神社のほうが立派な建物で、永田町や赤坂という一等地の山にあり広大な面積をほこる神社になっています。
こちらの本家本元の川越の日枝神社は、喜多院に比べたら、お参りする人もほとんどいませんでした。
私も以前に、参拝がてら御朱印をいただいたくらいです。ここへは久しぶりに来ました。