秩父の札所の中でもお庭がきれいとウワサされる法雲寺に、紫陽花の時期に行ってみました。
桜の時期やツツジの時期、藤の時期もいいのでしょうが、私が行く機会があったのは紫陽花の時です。
歩いていると汗が出て、6月でも暑くてたまらなくなっていました。
秩父鉄道の白久駅から歩きで行った法雲寺
白久駅からの歩きはこの道だけだと思います。
その道すがら紫陽花を楽しむことができました。
きょも(京本大我)担もぜひ参拝を
しばらく歩くと、法雲寺まであと350メートルという標識を見つけました。
途中で二股になっていますが、この標識に従って、「右上ガル」のほうへ。
右にいくとゆるい坂道になっています。
奥の標識にも書いていますが、さらに行くと谷津川渓谷があります(お寺近くには谷津川館)。
さて、やっと秩父三十の文字が見えてきました。
きょも担の方々は知っているでしょうが、京本大我さんが「最大のパワースポット」と言ったお寺です。
それにしても、SixTONESの京本大我さんが御朱印めぐりをしていたとは、知りませんでした。
本堂は、旧大滝、白久村の境近くにあったといわれています。
熊倉山に続く渓谷の登山口にあります。熊倉山中腹には、戦国時代、長尾景春の立てこもりをした熊倉城跡があります。
その熊倉城跡の近くに奥の院があるそうです。ここも水潜寺のような潜ってめぐることができる洞窟だったそうです。そういえば、橋立も奥の院と呼ばれるのが鍾乳洞でしたよね。
洞穴に入るのは、儀式的な感じもします。
今は奥の院まで行く人も少なく、道も山の中でわかりにくいそうです。
法雲寺には三種の宝あり
三十番入口と書いてくれてある参道から入っていきます。
私はきょもが出たテレビ番組を見ていなかったのでわかりませんが、なぜ、秩父札所、なぜ法雲寺だったのでしょうか?
三種の宝を見るためだったのかしら?
お地蔵様というより、観音様でしょうね。
少し小さめでかわいいです。
6月ですから、境内の木々の緑が濃いです。
しばらく参道を歩きますと、紫陽花が見えてきました。
観音堂に行くには、階段を登りますが、その手前には池がありました。
裏山になっているところが観音堂へ続きます。山の斜面を活かすように池が配置されています。
観音堂への階段です。
階段を登るところには、紫陽花がきれいに咲いていました。
奥のほうに観音堂があるのがわかりますか。
青もみじもきれいです。
紅葉の頃もきれいな境内なのでしょうね。
庭園が見ごたえあるというのも実際に行ってみたらわかりました。苔むすところもいいですね。
竹筒から出るお水もきれいです。
ということで、青もみじと観音堂です。
私は紅葉よりも青もみじが好きなので、これでいいのですが、紅葉を見たい人、写真に収めたい人は、秋にお参りをどうぞ。
青もみじだけでなく、紫陽花と一緒に観音堂の写真を載せておきましょう。
いつもの秩父の奉納額です。
「霊鏡の因縁によってこの寺に楊貴妃観音が祀られた」
日本なのに、楊貴妃とは?
そのうえ、楊貴妃だけでなく、楊貴妃観音です。
ますます謎を呼びます。
観音堂のまわりを歩いてみたら、説明書きがありました。
後ろに立っているのは、秩父市の天然記念物であるヒヨクヒバ(桧葉)です。
「秩父観音霊場札所三十番は瑞竜山法雲寺と云い、本尊は如意輪観音菩薩・木の座像・一尺二寸、元応元年(1319)法雲寺開山道陰禅師が、唐より持って帰ったもの。
観音堂は六間四面、唐様の方形造り。過去帳に元和元年(1615)の建立とされている。
この寺は、古い納札が保存されている。享禄四年(1531)、天文五年(1536)、同六年、二十四年の銘が有る。
札所番付と共に、秩父札所の起こりや移り変わりを知る、貴重な資料と云われている。尚、寺宝として「天狗の爪」「竜の骨」「唐の竜」が保存されている。
観音堂前の桧葉は元和元年、当寺が改築した記念に植樹され約三百六十五年の樹齢と推定される。
和名「比翼ヒバ」通称「イトヒバ」と呼んでいる」
と書かれていました。
ヒヨクヒバは、イトヒバのことなのですね。
先程の説明書きでは、寺宝としてあるのは「天狗の爪」「竜の骨」「唐の竜」だということですね。
私が聞いていたのは「天狗の爪」「竜の骨」までは同じなのですが、最後が「楊貴妃の鏡」だということを聞きました。
奉納絵馬には楊貴妃観音
秩父札所霊験記より、ということで楊貴妃観音が絵馬の絵柄に採用されていました。
楊貴妃観音は説明書きによると、
「御本尊の如意輪観音は別名楊貴妃観音と呼ばれ、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うために自刻されたと伝えられる渡来佛です。御手にする如意宝珠はあらゆる願いを叶えて下さいます。諸願成就、健康長寿、安産守護等御利益があるとして篤い信仰をあつめています」
少しなぞが解けました。
御本尊の如意輪観音座像は、唐からもたらされた像で、それが「楊貴妃」と結びついたのですね。
それにしても玄宗皇帝が自作したとは。
では残りの「天狗の爪」「竜の骨」「唐の竜」はどれでしょうか。
もしくは、楊貴妃の鏡ですが。
よくわからなかったのですが、本堂をみるとあるのだとか。
扉が閉まっていたので気が付きませんでした。
もしかしたら、奉納額の下にあったのがそうなのかもしれません。
次回参拝したときは探してみようと思っています。
さて、参拝を終えて観音堂から本堂のほうを見ます。
遠くには山々が迫っていて、秩父らしさを感じる場所です。
こちらが池と本堂です。
「古い納札が保存されている」というのは、本堂のほうに保管しているのかなと思いました。
どうでしょう。
観音堂から降りてきて納経所に立ち寄ります。
納経所の前がフジ棚になっていました。
藤の花が咲く季節もきれいでしょうね。
納経所からみた観音堂です。
山の斜面を活かして、上のほうに観音堂があることがわかります。
こんもりしているのは、おそらくツツジでしょう。
春からいろいろな花が楽しめるようです。
ここからみると、確かに裏山があって、奥の院でもありそうな雰囲気はあります。
見事な藤棚あり
こちらが先程から言っている藤の木です。
フジ棚は、みごとなものです。残存ながら、すでに藤の花の時期は終わっていますが。
マムシにも注意
「マムシ注意」の文字に気づいてあせりました。
こちらの説明書きはさらに詳しいものでした。
「臨済宗建長寺派の寺院で、開創は十三世紀中頃の鎌倉時代である」
ということで、鎌倉時代だったのですね。
こちらにも玄宗皇帝が作ったことが書かれていました。
「唐の玄宗皇帝の作と言われる。皇帝が戦場にあって楊貴妃の冥福を祈り、観音の御心にすがる真情がうかがえて美しく尊厳に満ちたものである」
驚きは堂宇が多くあったらしいことです。
「堂宇は江戸時代初期には観音堂、本堂、仁王門等を備えていたが嘉永年間火災に遭い、観音堂のみを残し悉く焼失した。
昔日の面目を残す観音堂と四季折々の花で彩られる浄土庭園との調和は見事であり、訪れる人々の心を和らげてくれる」
こういう庭園を浄土庭園というのですね。
寺宝については、納札のほうが注目度が高いようです。
「日本百箇所の観音霊場となった史実の最古の記録を物語るものである」と書いてありました。
それに名前まで!
奥州の葛西氏の名前です。
「為に」のところは、「親菩提」と書いていたのか。
それと、あのヒヨクヒバは開祖の道陰仏恵禅師のお手植えと伝えられていたのですね。
しかし、その内容が頭に入ってこないインパクトある「マムシ」の文字です。怖いわ。
先程の「秩父三十番入口」のところです。
このようにお寺の前は二股になっています。
もうひとつの道は、水道局かなにかでしょうか。
車で来る人はこのあたりに止めるのかな。
秩父三十番の石碑のところには、法雲禅寺とあります。寺の文字は消えていますが。
武州日野駅近くの紫陽花もご紹介
最後に、武州日野駅の紫陽花のことも書いておきます。
法雲寺からは約1時間歩くことになりますが、武州日野駅まで歩きました。
法雲寺は白久駅が近いのですが、その白久駅は三峰口駅と武州日野駅の間にあります。
どちらかというと武州日野駅のほうが遠いのですが、なぜ武州日野駅なのかと言いますと、紫陽花の名所だからなのです。
カタクリ・ニリンソウの里を通って
歩き始めてから、蒸し暑い日に歩き続けたことを少し後悔しましたが、いい景色が見れたので良しとします。
それに、もし歩かなかったら、「カタクリ・ニリンソウの里」なんて絶対気が付かなかったと思うからです。
なんとここは、カタクリ、ニリンソウ、アズマイチゲの自生地なのだそうです。
保護しないといけませんね。
本来なら、29番の長泉院から歩き巡礼ならここを通るわけです。
新築の小さな祠のところに、「巡礼道」の札が見えました。
私の場合は、逆コースということですが。
約1時間の道のりですから、途中で喉が渇くわ、暑さでまいるわでしたが、山間の風が吹くことが何度かあって、助けられました。谷の風というのか、すごく涼しかったです。
やっと武州日野駅が近くなってきました。
100メートル以上あるのでは、と思うほど、道沿いに長く紫陽花の花が並んでいます。
武州日野駅までずっと続くのです。
紫陽花というと首都圏では鎌倉を思い浮かべる人が多いですが、秩父だって負けていません。
色とりどりの紫陽花です。
それが国道沿いだからなのか、紫陽花を見に来る人もなく。
車を多く通り過ぎましたけどね。
長い紫陽花ロードを独り占めしました!
それにしても紫陽花は、本当に色が異なるのですね。
武州日野駅からすぐの場所なので、紫陽花の時期に見学にどうぞ。