今回のブログは、江戸時代を懐かしむということで、「江戸時代の秩父巡礼ガイドブック」に沿って江戸、すなわち、東京からの道を歩いてみたいと思います。
実は、秩父札所めぐりは、江戸時代女性に人気だったそうなのです。
男は伊勢詣で、女は秩父観音霊場へと言っていたそうなのですよ。
江戸時代を真似する、とはいうものの一気に歩けるはずもなく、女の私が翌日に疲れを残さない程度に区切りながら歩きます(江戸時代の人たち、歩き早すぎ)。
一気に街道を通って行っていないので、他の人の参考になるかどうかわかりませんが、女性の一人旅で歩いている人のブログはあまりみかけないので(街道歩きはいても秩父巡礼を含めての人は)、現代人の女性代表として、歩いてみます。
さきほど書いたように秩父は他の観音霊場に比べ、女性の巡礼さんが多かったこともありまして、最後まで歩いてみましょう。ブログに逐次紹介で。
巡礼で歩いていた時も、江戸時代の人って、疲れ知らず、と思っていましたので、自分のペースは守りたいと思います。
冒頭の写真は、高速道路の下にある京橋の親柱とレンガです。親柱は3つ残されているそうです。
石つくりのもの2つと、石とコンクリートでつくったもの1つ。
親柱には、「京橋」の字がありました。
上の写真のロケットみたいな親柱の後ろに見えるのがガス塔で、これは燈柱と呼ぶのかも。
明治7年に造ったものとのこと。
この一帯は耐火性能に優れるレンガでレンガ街を造ったそうです。下に見えるレンガは最近発掘されたものを、当時のフランス積みで再現したそうです。
フランス積みがよくわかりませんが。
ブログは地下鉄で最寄り駅から行ったため京橋スタートになってしまった
擬宝珠型の親柱です。
明治8年に木から石作りのものに変えられたとのこと。
先程のロケット型は、大正11年のものなので、こちらのほうが古いですね。
もうひとつは、写真を撮っていないのですが、交番のすぐ横にあります。
そちらは、ひらがなで「きゃうばし」と書いてあります。
隣に銅板で説明が書いてのは、わかるのですが、何と書いてあるか読めません。
少し用事を済ませてから日本橋へと向かいました。
途中、高島屋で入り口にある「水飲み場」を見学。
ハスの花弁をモチーフにしたそうです。昔の建築物は、こういう余裕があったのですね。
さて、先程から書いている江戸時代のガイドブックですが、「秩父順礼独案内記」です。
埼玉県立図書館にあります。
埼玉県立図書館のデータベースで観ることができます。
そこにも書いてあるのですが、江戸時代、江戸から秩父に行くには、3つの道(川越通、熊谷通、吾野通)がありました。
一番人気のあったのは、川越通(江戸より廿三里余とガイドブックに書いてある)です。
他には、吾野道、熊谷道がありました。ものによっては、大宮からの道と書いてあるみたいですが、今のさいたま市を通るルートです。
ちなみに十返舎一九も秩父巡礼記を書いているのですが、そこに書いているのは、川越道を使ったルートです。
日本橋が本当のスタートだが
写真を見たら、すぐわかる「日本橋」です。
日本橋からスタートと書きましたが、五街道のスタート地点だからということです。
中山道を通ります。(京橋は東海道ですが、これは寄り道ということでカウント外)。
秩父へは江戸時代、3通りのルートがありましたが、私はまず、当時から人気だったと言われる川越のルートを選んでみました。
その後、他のルートにも挑戦してみたいと思います。いつになるやらですが。
で、川越通は、主に、川越街道(当時は川越往還と呼ばれていたらしい)を通ります。川越街道は、板橋スタートですが、そこまでは中山道だろうと思いまして、中山道に沿って歩きます。
だから日本橋スタートにしました。
しかし、ガイドブック(秩父順礼独案内記)には、本郷森川宿からのスタートになっているのですね。
本郷森川宿までは、誰もがわかっているから、あえて省略したのでしょう。私はルートを知りませんでしたが(笑)。
日本橋というと、駅名でしかイメージできないかもしれませんが、橋です。
江戸時代は、橋から富士山が見えたと言われてます。
それにしても立派な獅子です。手には東京都の旗のマークみたいなものを抑えています。
日本橋の揮毫は、徳川慶喜だそうですよ。
江戸時代、日本橋から秩父を目指すとなると、中山道を通り本郷森川宿までは予想となりますが、江戸時代のガイドブック(秩父順礼独案内記)によりますと、川越街道(川越往還)を通り、川越児玉往還を通り、さらには小川宿から安戸宿を経て、坂本宿を通り、粥新田峠を経て、札所1番へ向かうということがわかってきます。
この秩父順礼独案内記ですが、秩父札所に入ると付近の絵を描いてくれたり、サービス精神旺盛なのですが、札所に入るまでがけっこうムラがあります。
お寺やお宮についてまで書いてくれているところもあれば、地名だけというそっけない場所もあります。
小川宿から安戸宿、坂本宿の通りは、今は県道11号なのですが、江戸時代は何と呼んだのか私の調べ方が悪いのか、まだよくわかりません。呼び名よりも街道歩きですからいいのですが。
それ以外は、秩父への道は、中山道、川越往還、児玉往還といってたみたいです。
余談ばかりですが、先に進めましょう。
まだ、日本橋ですが。
この青銅製のものですが、羽が生えていますが、麒麟ですかね。
先程の橋の入り口は、獅子だとわかりました。
狛犬っぽい獅子でしたが、これは麒麟でいいのかな。
こちらは、日本橋の船着き場です。双十郎河岸です。
にほんばしと書いてあります。
かなり前に水上散歩として、ここを船で通った記憶があります。
双十郎河岸(日本橋船着き場)の対岸には、日本橋の魚河岸跡です。日本橋魚市場発祥の地です。
築地に移転するまでは、ここが魚河岸です。関東大震災の後に移転が決まったそうです。
その石碑の下には、乙姫広場と書いてありました。
この女性は乙姫?
乙姫広場というだけあって、お花がきれいに飾られていました。
お向かいには日本国道路元標
道路の向かい側に渡ると道路元標がありました。
本来は、橋の中央にあったそうですが、現在は複製されたものが道路わきの「元標の広場」に飾られていました。
東京市道路元標の塔もあります。
他のところでも見たことがありますが、道路元標が大正時代に制度化され、東京市の元標は日本橋に置かれることになりました。
各市町村にひとつあったそうです。
道路の起点を表します。
日本橋は1603年に創架され江戸幕府により五街道の起点として、定められました。
現在の日本橋は、1911年に架橋されたルネッサンス様式の石造二段式アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻された「日本橋」及び「にほんばし」の文字は紋復の将軍、徳川慶喜公の揮毫によるものです。
1972年日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設、保存されました。その据えられた跡には内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に創作、設置されたものです。東京市道路元標がは、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています
里程標もありました。
千葉市、宇都宮市、水戸市、新潟市、仙台市、青森市、札幌市など書いてあります。
福徳神社もそばに
コレド日本橋室町のビルの谷間にある福徳神社です。
夜もライトアップされていてきれいですよ。
狭い場所ですが、しっかり社殿はあります。
芽吹稲荷と徳川が呼び
今まで気が付かなかったのですが、通りに「福徳神社」の神社標もありました。奥に見えるのが福徳神社です。
福徳神社といいますが、稲荷神社なのですよね。
芽吹稲荷です。福徳村の稲荷神社だったのですが、徳川秀忠が芽吹稲荷と名付けたとか。
ここは宝くじ当選祈願で有名な場所です。江戸時代、富くじの発行を許された場所になります。
宝くじを入れておく袋、宝袋も売っています。
石町時の鐘、鐘撞堂跡地や夜半亭、与謝蕪村居住跡地
旧日光街道を通りすぎ、長崎屋という薬のお店の跡地の先、日本橋室町4丁目5番付近に来ましたら、西町の時の鐘の跡地がありました。
時の鐘は、現在は移設されて(伝馬町牢屋敷跡地がある十思公園へ)ここには何もありません。
時の鐘は川越にも有名な鐘がありますがいろんなところに時をつげる鐘はあったのでしょうね。
その説明板のすぐ隣には、与謝蕪村の居住跡地の説明板がありました。
夜半亭は、俳諧師早野巴人が石町の時の鐘のほとりに結んだ庵です。
弟子の与謝蕪村がここで俳諧を学んだ場所となっていました。
神田駅を通り過ぎ、神田川へ
神田駅の下を通り過ぎまして、神田川へと歩いていきます。
中山道は国道17号を歩けばいいのだといいますが、ところどころ、旧道に分かれます。
須田町の交差点で旧道のほうにいきまして、神田郵便局を目指します。
旧道は、交通博物館の跡地から中央線のほうへ行くのですが、私は神田郵便局の裏手に古い感じのお店が多かったので、そちらに行ってしまいました。
看板も右から読みます「あんこう鍋」
こちらは、竹むら。竹邑と書くのが正しいのかな。「おしるこ」と書いてありますね。甘味処です。
ということで神田郵便局の前の交差点まで来ました。
こちらが旧道と言われますが、本来は、神田川を渡るのは、別の橋を通ったそうです。
今はないので、とりあえず、昌平橋を渡ります。
昌平橋と書いてある柱(親柱?)のランプのところがかっこいいなと思ったのですが、写真にうまく入りません。
ということで、橋のもう一つの裏手のほうから写真を撮りました。
徳川吉宗が昌平橋と名付けたそうですが、この先にある湯島の聖堂が近くにあって、儒学の祖である孔子にまつわり、昌平橋としたそうです。
江戸時代の中山道は、この昌平橋と万世橋の間にある橋(筋違橋と呼ばれていたらしい)を通ったそうですが、なぜそちらは壊したのか。
湯島聖堂や神田明神の前を通って
昌平橋を渡り、その儒学の学問所である湯島の聖堂です。
孔子廟となります。しかし、中山道のほうからは裏手になります。
ちょうど初詣期間で、この道路は交通規制となっていました。
本来ならもっと、車の往来が多いところでしょう。
その後、彼岸桜の頃にもそばを通ったので写真を。
昌平橋を越えてからは、国道17号に戻りました。
そのお向かいにあるのが神田明神です。
遠くに赤い建物が見えると思います。
神田明神は会社関係の初詣で人気なのです。
私も昔、この付近で働いていた時、会社の役員の人たちは仕事始めの日に神田明神に参拝に行ってました。
私もついでに神田明神に立ち寄りたかったですが、今回は秩父まで行きますし(笑)、街道歩きがメインなので、またの機会にしました。
次に行った時は、雨でした。
本郷三丁目駅からすぐの「かねやす」までが江戸のうち
順天堂大学病院の裏手を歩き、本郷三丁目駅をすぎると、角の交差点の「かねやす」のお店にきました。
かねやすビルです。
今まで何度もこの前を通っていたのですが、街道歩きの人たちには有名な場所だったらしいです。
文京区役所の説明によると、
享保年間(1716~1736)に、現在の本郷三丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。
これが当たり店が繁盛していたという。
享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。
「本郷もかねやすまでが江戸のうち」、ということで、北側は町家で南側は土蔵造りと、ここを境になっていたのですね。
繁華街と住宅街ということでしょうか。
もっと近寄って撮った写真がこちら。
東大赤門は本郷三丁目駅から近い
本郷三丁目駅から歩いて本富士警察署の裏手に、春日局ゆかりの麒祥院というお寺があります。
江戸時代の街道歩きですから、立ち寄りしたかったですが、またまた遅くなってしまうと思い、東大のほうへと歩いて行きました。時間がある人は、麒祥院という春日局が建立して菩提寺としたお寺にも行ってみるといいです。
さて、まずは東京大学です。
赤門の説明です。
文政10年(西暦1827年)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。
赤門というと、東大。東大の門にも数々あれど赤門がやはり有名です。
改めてみますと、朱塗りが目立ちます。
表門が黒門になるそうですが、このように赤門は単に色を変えて塗っていたわけではないのですね。
先程の文京区ホームページの説明によりますと、
「当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んだ」
ということです。
別の日に、遠くから全体を。
赤門のすぐ前には、お寺の霊園があるのですがその横道に「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」の跡地がありました。
このお寺の東隣に「桜木の宿」があったそうです。ここで暮らしていた時は幸せな時だったとか。
この近くに、桜木神社があります。
東京大学の安田講堂が遠くに見える東大の正門前を通ります。
ここらへんは、レンガの塀があってさすが文京地区だなと思います。
この正門の前から本郷弥生町交差点あたり(本郷六丁目)が、「本郷森川宿」と呼ばれていた一帯だそうです。
森川というのは幕臣の森川金右衛門の名前からくる俗称だそうです。
俗称のわりに有名な場所だったのか、私が今まで何度も書いてきた江戸時代の「秩父順礼独案内記」には森川宿からスタートとなっています。
それらしい名前は、鳳鳴館の森川別館くらいでしょうか。
旧森川町の説明が道のところにあるそうなのですが(その後、訪問)。
明治5年に森川宿から森川町に名称変更されたそうです。昭和41年までは森川町となっていたとのこと。
「岡崎藩主本多家の屋敷と先手組屋敷を併せて、森川宿から森川町と名づけた。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。与力はたいてい森川氏の親族で、同じく森川姓を称していたので森川宿といわれた。
宿とは当時中山道の建場であったからである。建場とは馬建場で人馬の休むところであった。
森川町の中心に、本多平八郎忠勝を祀る映世神社があったが、戦後、廃社となった。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ」
その後、本郷郵便局の近くを通ったので、森川宿や森川町についての案内板の写真をアップします。
日本橋から4キロの案内の先にあった旧町名案内です。交番の近くです。
こちらのほうは、本郷郵便局や郁文堂の近くにあったもの。
鳳明館へ入る道の近くにあったものです。町会名としては残っている模様。
説明は同じみたいでした。
これで本郷六丁目あたりに本郷森川宿があったことがわかります。
東大農学部がみえる門の前の交差点で、国道17号は大きく左に折れます。
それと同じく中山道もここで分かれます。
ということで、本郷森川宿はもちろんのこと、旧森川町もどこからどこまでか、よくわからなかったため(その後、旧町名案内で知ることに)、とりあえず、ここの追分一里塚付近を、本郷森川宿とみなすことにします。
※その後、本郷六丁目あたりとわかる。
私が見ている江戸時代の秩父巡礼のガイドブックである「秩父順礼独案内記」は、ここ本郷森川宿付近。
追分一里塚からスタートということにします(日本橋スタートと分けて、ざっくりと時間を測るため)。
「秩父順礼独案内記」の本郷森川宿は絵にあるように追分の付近
この分かれ道を「追分」といいまして、このTAKASAKIーYAが目印です。
高崎屋商店です。
1751年から営業しているお店です。
今は酒屋さんですね。
ここのお店の前に、追分一里塚跡の説明板があります。
文京区指定の史跡です。
一里塚とは、駄賃の目安、道程の目安、休憩の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた場所でもあります。
説明によりますと、「ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。
18世紀中ごろまで榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた」
ここにある高崎屋さんは「江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね、現金安売りで繁盛した」とのことです。
この説明書きに添えられている絵(中山道分間延絵図)にも、三叉になっている道の手前に「森川宿」と書いてあるのですから、追分一里塚から、それほど遠い場所ではないことはわかります。