秩父の札所には、観音寺と観音院がありますが、今回ご紹介するのは、観音寺です。

観音様の札所ですから、「観音」という字は使われやすいのでしょうね。

今回の観音寺は、境内は広くなくてぐるっと一回り見渡すことができるほどの広さですが、それでも見どころ多いお寺です。

珍しいものありなのです。

県道に沿って進むと道路に開いたお寺の入口が見えます。


観音寺前には中村十九十郎の墓がある

お寺の境内に入る前に気がついたのは、お墓です。

中村十九十郎の墓と書いてあります。

「当地出身で本名笠原登志蔵、地芝居大和座の座頭で立役の名手「田舎千両」と評判される」とあります。

明治四十二年没、六十二歳と書いてありました。

ここのお墓だけがぽつんとあるので、地元では有名人だったのでしょうね。令和の時代までお墓が残っているくらいです。

大和座と書いてあるので、もしかしたら、小鹿野町の小鹿野歌舞伎の大和座なのかもしれません。

その地方でやっている地元の歌舞伎です。

地芝居ポータルというサイトに、小鹿野歌舞伎のことがありました。そこに「大和座」と書いてありました。

たぶんこの「大和座」のことかなと思いました。

小鹿野歌舞伎(埼玉県) | 地芝居ポータル

小鹿野歌舞伎は、今から二百数十年前の江戸時代中頃に始められました。小鹿野町内には寛政四年(1792)に歌舞伎を上演した記録も残りますが、文化・文政期(1804~30)に活躍した初代坂東彦五郎が一座芝居を組織し、その後勇佐座、天王座、大和座と引き継がれ、小鹿野の大和座は長瀞の和泉座とともに明治・大正期に歌舞伎の最盛期を作り、秩父地域はもとより大里郡、児玉郡、比企郡から群馬県まで興行を行なっていました。

私も新聞などで、小鹿野の歌舞伎のことは読んだことがあります。

テレビのない時代は、これが娯楽のひとつだったのでしょう。しかし、各家庭にテレビが一台となりますと、芝居を見に行くことも少なくなります。

地芝居も、道具は老朽化、役者も少なくなるという時代があったそうです。

しかし、地元の大切な文化遺産、それも無形文化財といってもいい貴重な伝統です。

小鹿野でも小鹿野歌舞伎保存会が結成されたそうです。

 



さて、お寺の中に入っていきますと、お寺の額のところに、大きく「札所廿一番」と書いてあります。

その上の扁額に、「矢之堂」の文字です。

実は、こちらの観音寺は、「矢之堂」として知られているのです。

それは、神社、八幡宮が関係します。

いつもの秩父札所でみる絵が掲げられていました。ここにも矢之堂です。

観音寺矢之堂とあって、「ここは元八幡宮の社地であったが、行基菩薩の刻んだ聖観世音像を安置して霊場とした。武将の矢、納めた所、火難に強いといわれる」と、縁起が書かれていました。

もともと、こちらのお寺は、秩父郡矢納村(今の神川町)にあったそうです。それがこちらに移されたとのこと。

そのために、矢納ということで、矢之堂だという説もあります。

もう一つの説が八幡宮なのです。


境内には鳥居があって八幡宮あり

桜の花がきれいに咲いています。

松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の石碑の右側に八幡宮がありました。

赤い鳥居が目立っています。

神仏習合時代あったのでしょうか。お寺に鳥居です。

氏神様の八幡宮が矢を放って土地の悪鬼を退散させたからと言われています。

他にも、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)や平将門がこの地で、矢を納めたという説もあります。

そういえば、八幡宮や八幡神社では、白羽の矢とか、破魔矢とか、「矢」が授与品になっていることをよくみかけます。

八幡宮と矢は関係あるのかもしれませんね。



観音寺の説明書きです。

 

「この堂は通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で、他に幾体かの仏像があります。大正十二年小学校火災により類焼後、今の堂がつくられました。焼失前は三間四面の堂であったといわれ、境内には聖観音立像、百万遍念仏塔、弁財天石塚、芭蕉句碑等あり盛時が偲ばれます」

と書いてありました。

近隣の火災(大正12年の小学校の火事)で類焼したことが書かれています。しかし、御本尊の聖観世音菩薩だけは焼けずに残ったと言われているのです。

そのために、古くから火伏せ観音して知られているそうです。

そのほかにも、

「道前の道端には地芝居役者の座預中村十九十郎の供養碑もあって、地芝居隆盛の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。

昔この地は元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場となったといいます。

「邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放てる神矢がここに落ち、悪魔退散したるため名づけて矢の堂となす」という縁起があります。」と書かれているので、八幡宮の矢、悪魔退散させた矢という説が書かれていました。

 



珍しく御詠歌が掲げられていました。

ここにも矢之堂となっています。

「梓弓 いる矢の堂に 詣で来て 願ひし法に あたる嬉しさ」と書いているとのことです。

達筆すぎて読めませんでした。

堂宇は焼けたのですが、観音様は残っていたとのことで、廃寺となった寺の建物などをこの地に移築されました。



本堂に向かって左手に納経所がありました。

境内には砂利が敷き詰められていました。

こざっぱりとした境内です。

 



六地蔵の裏にも観音寺の説明書きです。六地蔵は、入口向かって左手にあります。

こちらは比較的新しく建てられた説明書きのようでした。

中村十九十郎のところに、「田舎千両と称えられた」と書いてありました。

先ほどは、「供養塔」となっていましたが、こちらでは「墓」となっていますね。

先程の八幡宮のことが書いてあります。ここは元々、八幡宮の敷地、旧八幡宮の社地だったそうです。

「昔、この地は元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場となったといいます。

邪神悪魔を除き、仏地にせんと、八幡大菩薩の放でる神矢がここに落ち、悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起があります」


宝篋印塔もあり

入口の右手にあるゴツゴツした岩のようなところにお地蔵様が何体かありまして、そこに古い宝篋印塔がありました。

宝篋印陀羅尼を納める供養塔だそうです。

息災長寿のための呪文を納めて配ったというのが宝篋印塔とのことですが、今は、供養塔になっていることが多いそうです。

これと百万遍念仏塔とは違うのかな。


納経所で御朱印を待っている間にこの「お猿のお守り」を見つけました。

この赤い猿のお守りは、地元の方の手作りで、安産、安心、子育てを願ってお供えしたものだそうです。

秩父の札所においては、安産や子育ての観音像など、奉納にも安産、子育てを願うものを見つけたことが何度かあります。

女性を幸せを願って、というものが多い印象です。

こちらのお猿のお守りも、触れることで安産や子育て祈願ができるのですね。