今回の厳殿山、正法寺は比較的我が家からは行きやすい場所にあります。
私たちは、正法寺の裏側に車を止めたのですが、こちらは大東文化大学のキャンパスに近いので、もし、電車やバスを使って行こうと思っている人も、大東文化大学のキャンパスを目指していけばいいのです。
埼玉県東松山市岩殿にあります。
私たちが止めた駐車場から正法寺に行くのは、道の下を通る(看板にも「この下トンネル道」と書かれている)のですが、この裏手の駐車場近くには、そのほかに正法寺に関連する場所(埼玉県指定の史跡)がありました。
県指定の史跡(六面幢)については、最後のほうに書きます。
まずは、正法寺についてです。
正法寺で有名なのは、岩壁にある、四国八十八ヶ所の本尊を写した石仏群でしょう。
百観音を写した石仏もあるそうです。
ヒガンザクラが咲く頃に岩殿観音へ行ってみた
先程も書いたように、完全に正法寺の裏手になってしまっていました。
正法寺の正面、表参道のほうにも駐車場があったようなのですが、裏手から入ってみました。
林のような木々がある場所を通り抜けるとお寺への道がぱっと開きました。
岩殿観音への矢印が看板にありますが、すぐにわかります。
大きな銀杏の木があった正法寺
すぐに観音堂が見えてきました。
塔も見えます。
それとともに、目立つのが銀杏の木です。
かなり大きいです。残念ながら、11月くらいだったら黄色に色づいているのが見えたのでしょうね。
これくらい大きいと秋は、銀杏の木を見に来る人もいるでしょう。
しばらく歩きますと、観音堂への道に案内板がありました。
観音堂境内見取図です。銀杏の木も書いてありました。ここにも「大イチョウ」と書いてあったので、大きいことがわかります。
この見取図をみて、山門方面にまで行かないと納経所がわからないだろうということが見て取れました。
まずは、観音様にご挨拶です。
観音堂のそばにある建物を最初、休憩所か、なにかだと思っていたら、この見取図を見たら、絵馬をかかげる場所、絵馬堂だということがわかりました。
埼玉県東松山の有名なお寺が正法寺(坂東十番霊場)
この正法寺が建つ場所付近が物見山というハイキングコースにもなっている山です。
山の中腹に開かれたお寺です。
ですので、表参道のほうに行くとわかりますが、急な階段がありまして、山を登っていくことがわかります。
私たちは、山の裏手のほうから入ったので、階段をえっちらと登っていく必要はなかったのですが、後ほど、納経所に行く時にわかりました。
観音堂の手前のお香を建てる場所に、秩父坂東西国の百観音霊場に行った参拝記念の碑がありました。
その石碑の上には、小さな鐘がありました。
これは、一緒に行ったみなさんで、お金を出し合って奉納したものでしょうね。
正法寺はみていただくとすぐにわかるように、かなり古いお寺です。これぞ、埼玉の古刹です。
欄間のところには、龍の彫刻があります。
額なども飾ってあるのですが、雨風に打たれてなんと書いてあるのかわかりませんでした。
これほど古い建物となっているのですが、明治12年にこのお堂は、高麗村白子(今の飯能市)のお寺から移築したのだとか。
どこのお寺も同じなのですが、こちらの観音堂も火災の被害にあっています。
こちらが観音堂に向かって右手の階段のところです。
後ろの岩肌が見えるでしょうか。山の中腹を切り開いて建てたお寺だとわかります。
手前の赤い帽子をかぶっているのは、お賓頭盧さまです。
ご本尊は千手観音坐像です。しかし、御開帳は12年に1回の午年だけです。
ご本尊は、秘仏になっていますが、前立の観音様がいらっしゃいます。
建物自体は古いのですが、彫刻などが見事です。
それにしても、ものすごい数の千社札ですね。いろんなお寺が千社札を貼るのを禁止するのがわかります。
木札に七観音霊場とも書いてあったのですが、どの霊場なのだろう。
中の欄間にも龍が彫られていました。
御詠歌の木札がみえました。
正法寺の創建は養老2年、718年です。沙門逸海が山の岩の洞窟に千手観音を納めたのが始まりと言われています。
岩殿あたりには、昔、悪龍が住み着いていて、村人たちが困っていました。奥州征伐に行く坂上田村麻呂が地元の人たちに、悪龍退治を頼まれて、こちらの観音様にお参りしてから悪龍を退治したとの伝説が残されています。
だからなのか、龍の彫り物が目立ちますね。
鎌倉時代に北条政子の守本尊となり、源頼朝の命により、比企能員が再興したのだそうです。
室町時代は、お寺の隆盛期だったそうです。
千社札が多すぎて、額などがよくわかりません。
江戸時代になると、門前通りの名のとおり、門前には宿屋があったり、商店が立ち並んでいたそうです。
門前町の様相です。
それにしてもこれらの千社札はどうやって貼り付けたのでしょうね。観音堂は寛永、天明、明治と3度も火災にあったといいますから、その後に貼ったものでしょうけど。
正法寺の算額が東松山市の指定文化財に
算額を探したのですが、結局どれかわかりませんでした。
和算と呼ばれる算額です。
江戸時代から明治時代にかけて中国から伝えられた数学をもとにしたものです。
新しい問題に挑戦して、それが解けると、問題と答えを額に書いて神社仏閣に奉納してかかげていたという習慣があったそうです。
参詣にきた人にもみてもらいたいという気持ちと、難問が解けたことを神仏に報告して感謝するということ、それがさらに、もっと勉学に励もうという気持ちにさせたのでしょう。
いわば研究発表の場でもあったのです。
埼玉県に残されている算額の数は、約80面もあるとのことです。
正法寺に残されている算額は、今の嵐山町に住む内田祐五郎往延が33歳のときに奉納したものだそうです。
内田祐五郎往延は現在の熊谷市で関流の和算を学び、のちには人に教えるまでになっていたそうです。
さて、観音堂でお経を唱え、お参りを済ませたら、境内を少し歩いてみました。
観音堂と向かい合うように立っているのが、水子地蔵と弘法大師の像です。
こちらは、比較的新しく立てらてたような印象でした。
百地蔵堂と薬師堂
観音堂に向かって右手には薬師堂がみえました。
その隣には百地蔵堂です。
観音堂も古びていてそれがいいのですが、こちらもなかなか味わいのある建物です。
薬師堂には、薬師如来の額がかかっていて、木札には、薬師瑠璃光如来像、寛文三年八月と記載されていました。
ただし、秘仏なのか、厨子は閉まっていました。
百地蔵堂のほうには、関東百八地蔵尊霊場札所第十三番と書いてあり、水子子育地蔵尊と書いてありました。
水子に対しても、生まれてきた子の子育て対しても拝める場所になっていたのでしょうね。
ヒガンザクラと銅鐘
山を切り開いて建てたお寺なのですが、右手の端のところに鐘楼がありました。
銅鐘は元亨二年、1332年に造られたそうです。そのことが銘文に刻まれているとのこと。
古くからあることがわかるのは、1590年の豊臣秀吉が関東征伐に行った時、大道寺入道政繁がこの鐘を引きずりまわして打ち鳴らし、 軍勢の士気を鼓舞したと言い伝えがありまして、その時についた傷が残っていることがわかっています。
鐘を引きずり回すなんてすごいことをしていたのですね。
鐘もそうですが、鐘楼については元禄十五年(1702年)に作られたものだそうです。
瓦葺きの屋根がいいなと思いました。
薄く朱色が残っていて、昔は、ピカピカのきれいな寄棟造りの鐘楼だったのでしょうね。
再度、観音堂の前に行きましたら、埼玉県指定名勝として、「岩殿観音の勝」というものがありました。
物見山周辺一帯が名勝になっているようで、さきほどの坂上田村麻呂のことも書いてありました。
物見山という山の名前は、坂上田村麻呂が東征の際に、この山に登り、四囲を眺めたことからつけらたと伝えられています。悪龍退治のことも書いてありました。
この山は、俗に九十九峰四十八谷と称し、丘陵は波涛のように起伏している。
山腹には正法寺があり、岩殿観世音をまつり、境内には巨木の銀杏、スギ、ヒノキなどが高くそびえている。
春は、ツツジ、わらび、秋は紅葉、青松の間にはハツタケが生えると書いてありました。
山頂に立てば、遠くは箱根、足利、大山、富士山、秩父、信越、上野、下野、常陸の諸山から東京湾まで望むことができる。
これによると、かなり遠くまで見渡すことができるようです。
山門へと続く階段のところには、正法寺の説明が書いてありました。
真言宗智山派の寺院であること、岩殿山修験院とも、岩殿寺ともいわれる、と書いてありました。
また、県指定史跡の六面幢、県指定の歴史資料の銅鐘、市指定の歴史資料の鐘楼があるとも書いてありました。県指定史跡の六面幢については、また後ほど。
玉垣には、坂東開創百年記念との文字がありました。
こちらの石段を下っていったら、下にも正法寺の駐車場がありました。表参道から登ってくる人はみなさん、そちらの駐車場を利用していたみたいです。
御朱印をいただきに納経所へと階段を下る
さて、御朱印をいだだきに山門へと階段を降りていきました。
途中にこのような、古びた立て札がありました。
この制札(高札)は、戦国時代の松山城主上田宗譚朝直が発したものだそうです。
なんと岩殿一帯の草木を刈り取ることを禁じたことが書いてあったとのこと。
現存する文書自体は、正法寺が保管しているのですが、それを復元したもののようです。
また東松山市の観光協会がこの石段のまわりにガクアジサイやヤマアジサイを植えて、梅雨の時期にも参詣に訪れる人に四季の移り変わりを味わってもらおうと計画したそうです。
私が行った時は、ヒガンザクラでしたが、その後は、ソメイヨシノの桜、そしてその後は、ツツジとなり、梅雨時は、紫陽花の花を楽しめるというわけです。
秋は秋で、イチョウなど紅葉が見られますからね。
さて、山門まで降りると、納経所がありました。
納経所の門を通って中に入ります。
石段をくだった先のこちらに本堂がありました(観音堂は上でしたが)。本堂にあるのは、阿弥陀如来像です。
阿弥陀如来がお寺としてのご本尊ですね。坂東33観音の札所ですから、観音様が重要ですが、観音堂のご本尊が千手観音菩薩となっています。
本堂には矢印で、「右手玄関にて、御朱印所」と書かれた張り紙がありまして、この本堂すぐ横が納経所です。
坂東十番納経所となっています。
御朱印の受付は、午前八時半より午後四時までと書かれていました。
他の坂東のお寺でみたものと違っていましたね。
夏時間と冬時間の別があるのか、わかりませんが、私が行った2月の時点ではこのようになっていました。
石段の脇には、このように、納経所の場所と、観音堂への場所がわかるようになっていました。
とはいうものの、観音堂は横向き矢印というよりも、階段を登るわけですが。
山門には仁王像が
せっかく山門まで降りてきたので、山門を見てみました。山号を書いた額には、厳殿山と書かれています。
山門の両脇には、仁王像がありました。
この仁王像ですが、今までずっと運慶の作といわれていましたが、平成四年の解体修理の時に、棟札がでてきて、運慶作のものは江戸時代に焼失していたことがわかりました。
現在の仁王像は、文化年間(1804~1818年)に再建されたものだということがわかったそうです。
今の仁王像は、その平成四年のときの解体修理時に漆を塗りなおされているので、古さを感じず、かなり新しい印象を受けました。
心霊スポットと言われるが昼間は何も感じなかった岩山
ここ正福寺は物見山を開いて作られていますが、岩壁に石仏があります。
四国八十八ヶ所の写本尊が並んでいるとのことです。
一部の人には、心霊スポットとして知られているそうです。
ですが、どこが心霊スポットなのでしょうか。
確かに、これ以上近寄ることができないように、ロープが張られていますが、これは岩壁から岩が時々落ちてくるので、危険防止のためのようです。
この岩壁が人の顔にみえるとか言われているそうですが、たしかに夜に来たらそのように見えるのかもしれませんね。
だいたいにして、夜に訪れる人はいるのでしょうかね。
お賓頭盧さまを写真に取った時に岩壁の石仏群もみえましたので、それを載せておきます。
どうでしょうか。岩壁に何かを感じるのかなぁ。
心霊スポットというよりは、この石仏、四国八十八ヶ所の写本尊ですので、こちらをお参りすれば、四国八十八ヶ所をめぐったことと同じご利益があるそうですよ。
岩壁の石仏の前に絵馬堂があります
私が休憩所かと思い違いをしていた場所、それがこの絵馬堂です。
絵馬の伝説も残っていて、馬の成長祈願のために、二頭の若い馬が書かれた絵馬が奉納されたそうです。
坂上田村麻呂の武勇伝にあやかりたいとのことです。
ある日、住職が絵馬を見ると、若い馬が消えていて、その若い馬は近くの都幾川まで水を飲みに行っていたということで、観音堂には白木の絵馬だけが残されていたそうです。
絵馬堂の中には、絵馬もあるのですが、それ以外にも、蚕の繭がびっしり詰まっているものが奉納されていました。
秋には大イチョウを目当てに来る人も
観音堂に向かって左側には、大きな銀杏の木があります。樹齢は推定ですが、700年を越えるそうです。
埼玉県内でも最大級の大きさで、木の周りは、11メートルの太さだとか。
江戸時代は、養老木と呼ばれていて、女性が安産や子育のお守りの対象として信仰されてきたそうです。
銀杏の木は、乳のように垂れたコブのようなものが見える場合がありますよね。茎が変形するのだとか。
そのことから、それが垂れたお乳のようにみえるので、子育ての信仰対象になることがあります。
紅葉の見頃は11月下旬から12月くらいだそうですよ。最近は、暖冬のことが多いので、その年その年で違うでしょう。
紅葉の見頃の時期には夜間のライトアップも行なう予定になっているそうです。
大イチョウの先には、なにやら神社の祠のようなものが見えたので、近寄ってみました。
すると、弁財天とか、大権現の文字が見えました。
昔は、神仏混合でしたから、このような神社のようなものも残っていたのでしょう。
物見山ハイキングコースの麓にあるようでした。
ここの上には、「鳴かずの池」と呼ばれる池(沼)があって、坂上田村麻呂が悪龍を退治した時に、首を埋めた弁天沼があるそうです。この沼には、蛙も住み着かないということで「鳴かずの池」と呼ばれるそうです。
私は残念ながら、この階段を登ってハイキングコースには行っていません。
ここを登ったら、かなり遠くまで見渡すことができるでしょうね。
県指定史跡である正法寺の六面幢(ろくめんどう)
今回のブログの冒頭でも書いたように、埼玉県指定史跡となる正法寺六面幢というものが正法寺の裏手の駐車場から歩いていけるところにあります。
正法寺の裏手というよりも、大東文化大学の裏手と言ったほうがいいかもしれません。
左手に行くと、岩殿観音への地下道のトンネル、右手にいくと正法寺六面幢というようになっていました。
枯れ葉が多く残っていますが、道は整備されていて、わかるようになっています。
ただし、六面幢に行くには、途中で脇道にそれて入っていく必要があります。
私は、どこで分かれるのかわからずに通り過ぎてしましました。
あまりに歩いていったのに、見つからないので、グーグルマップでみたところ、別の地点まで行っていたみたいで、途中で引き返しました。
本来は、上の写真にあるような立て札があるところで、曲がらないといけなかったのです。
それにしても「六面幢」の札が折れてしまっていますね。
このような脇道を歩いていきますと、正法寺六面幢のところに着きました。
ハイキングコースというわけではないようですが、道は自然に囲まれた場所にありまして夏に行ったら、気持ちが良さそうな場所にあります。
正法寺六面幢がある場所は、正法寺観音堂がある場所からみて東南の方面とのことですが、山の中の平らな場所にあります。
谷を利用した沼の対岸にあるとの説明だったのですが、どこが沼だったのかよくわからず。
でも、近くまで来ますと、開けた場所になっているので、六角形の柱があることがわかります。
東松山市の説明によると、
緑泥片岩(青石)の6板の板石塔婆を組み合わせて、六角柱をつくり、その上に六角形の笠石をのせたものですが、1枚欠失しています。
高さ107センチメートル、板石の大きさは横36・縦101センチメートル、笠石の直径は128センチメートルです。
確かに、1枚が下に落ちてしまっていました。ただし、周りはロープが張られているので、近くに行って触ることはできません。
六面幢というものは、六面塔とも呼ばれる供養塔のことなのです。
六面の幢ということで、そこに供養するための文字が書かれていたり、仏様が描かれていたりするそうです。
笠石の周縁には、飛雲、裏側には双竜・宝球、獅子、宝相華が極めて精巧に彫刻されています。板石にはそれぞれ銘文が刻まれています。
これによると、天正10(1582)年2月彼岸中日に、岩殿山の僧道照が開山栄俊、弟子俊誉、妙西、道慶、俊意らの菩提を供養するために建立されたものと思われます。
以前の最盛期の正法寺は、かなり多くの坊(一山六十余の坊)を抱えていたそうですから、広い境内だったと思われます。
ここの場所も、正法寺の境内として使われていたのでしょうね。
今では、観音堂からみても、ちょっと場所が離れてしまっています。
私は、裏手の駐車場に停めたから、こちらの存在に気が付きましたが、こんなところに、埼玉県指定の史跡があるとは思ってみませんでした。
私は、六面幢しか見ていないで、すぐ元来た道に戻りましたが、この六面幢の周りの平らなところを回ってみてもよかったかなと今では思っています。
高坂駅から「まなびのみち」コースを通ってハイキングもいいかも
正法寺だけでは物足りない!という人は、このような「まなびのみち」のコースを通ってハイキングをすれば、かなりの距離を歩くことができますよ。
総距離13キロと書かれていますから、まわって歩くだけでなく、岩殿観音のような場所では中をめぐったりするのかな。
廃線となった廃線敷を通ったり、岩殿観音の脇にある階段を登って、「鳴かずの池」なで歩いたりしていたら、1日はかかりそうです。